■本能寺の変における「偶然」~週刊アカシックレコード200601■
国内外のジャーナリスト、政治学者、歴史学者、歴史作家らの言動
を見聞きしてわかることは、世界には「軍事情報管理」(安全保障
上の秘密保持)という視点を持った人がほとんどいない、というこ
とである。
たとえば、日本では、政府は特定秘密保護法に基づいて安全保障上
重要な情報を特定秘密情報(国家機密)に指定し、それについて、国
家安全保障会議(日本版NSC)4大臣会合などの場で政治家と官僚が話
し合うが、NSCでは、法律上、閣議と違って議事録を残さなくてよ
いことになっている。
このため、NSC終了後に政府高官が記者会見に臨み、さっきのNSCの
議題は何かと訊かれても、その答えとしてほんとうのことを言うと
は限らず、秘密保持のために(真の議題を隠すために)ウソをついて
いる可能性があるのだ。
つまり、安全保障上の秘密保持には、秘密情報についてただ黙って
いることだけではなく、ウソをつくことも含まれるのだ。
天正10年(1582)6月2日に起きた「本能寺の変」直前の時点において、
明智家という独立性の高い軍事力を持った戦国大名(一種の主権国
家)にとって、絶対に保持すべき秘密情報(国家機密)は「主君の織
田信長に対する謀反(むほん)の計画」である。
この秘密を保持するため、明智光秀は、信長や当時の一般庶民、さ
らには味方である自身の支配下の武士までをもだますため、さまざ
まなウソをついている。
前々回、本能寺の変の当日、信長と信長の嫡男、信忠が少ない手勢
しか連れずに“偶然”同時に京都におり、光秀が2人をほぼ同時に
討ち取ることができたのは、光秀にとっては幸運だったという趣旨
のことを述べた。
しかし、光秀が本能寺の変直前についたウソを仔細に検討すると、
信長と信忠が同時に京都にいたのは偶然ではなく、光秀自身が信長
に対して巧妙なウソをついて導き出した“必然”であったことがわ
かる(2020年6月1日頃配信予定)。
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