今回は、前回にひきつづき、「ヘロドトスの伝統とトゥキュディデスの伝統」からその後半をお届けします。
第三節 トゥキュディデスと同時代史としての政治史
ヘロドトスの成果はすぐさま認知される。同時代の詩人ソポクレスやアリストパネス(Aristophanes, c. 445-c. 385 BC)は感銘をうけ、信頼にたるディウロス(Diyllos, fl. 330-290 BC)の証言(ヤコービ断片三)によれば、アテナイ人たちは彼のアテナイ贔屓をたたえて贈物をしたという。アテナイ人たちを名指しして、彼らの一人よりも三万人を一挙にだます方が簡単だと揶揄した事実からすれば、その人気は驚くべきものだ。
ヘロドトスは「歴史の父」と呼ばれるが、その起源はすくなくとも古代ローマの哲学者キケロ(Cicero, 106-43 BC)の時代までさかのぼる。紀元前四世紀のテオポンポスが彼の著作を要約し、古注家アリスタルコス(Aristarchos, c. 217-145 BC)が注釈をほどこす。しかしその名声は「真実に忠実」という資質によるものではない。
ヘロドトスを最大限にたたえる修辞家ディオニュシオスや風刺家ルキアノス(Loukianos, c. 125-c. 180)でさえ、彼の信頼性よりも文体を称賛する。歴史家トゥキュディデスは先輩ヘロドトスの軽率さを見下し、後世の見解もそれに完全に歩調をあわせる。
医師クテシアスをはじめ、哲学者のアリストテレス (Aristoteles, 384-322 BC)やプルタルコス(Ploutarchos, c. 46-c. 120)、地理学者のディオドロスやストラボン(Strabōn, c. 64 BC-c. 23 AD)は彼に泥を投げつける。ヘロドトスの嘘を非難した書物や文書は数多い。紀元後四世紀になっても、修辞家リバニオス(Libanios, c. 314-c. 393)は彼に反論する必要性を感じる。
ヘロドトスの方法が人々を納得させなかったのは明白だろう。読者は、彼が真実を伝えているとは信じなかった。この失敗は彼の欠点によるのかもしれない。実際のところ彼は、自身の報告と彼が真実と考えたものをはっきり区別しない。しかし注意ぶかい読者なら、彼は自身が伝える話のすべてに責任をおうものではないと許せるだろう。なににもまして、彼の偉業そのものは敬意をはらうに値する。
ヘロドトスにたいする人々の反発は、彼の方法についての理論的な疑念とは異なるところに起因するのだろう。たしかに批判者たちは、彼の人間味や細やかな反応を適切に評価できていない。たとえば最良の批判者プルタルコスが彼を嫌うのは、ヘロドトスがあまり愛国者でなく、ボイオティア地方より都市国家アテナイを贔屓にしたからだ。
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