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「尚古学の誕生」(前半)

BHのココロ
  • 2020/08/02
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今回は、これまでに引き続き、「尚古学の誕生」の前半をお送りします。 「尚古学の誕生」(前半) 第一節 はじめに――尚古家としてのペレスク  ながらく私は、「歴史学」には眼もくれずに歴史上の「諸事実」に関心をもつ人々に魅せられてきた。彼らの活動は私の職業に近く、自身の使命にきわめて忠実で、その情熱も理解しやすい。しかしその究極の目標はきわめて不可解なものだといえる。今日では純粋な「尚古家」antiquarian に出会うのは珍しく、イタリアかフランスの片田舎にまで足をのばして、寒々しく暗い部屋のなかで老人の冗長な説明に耳をかたむける心づもりが必要だろう。  こうした尚古家は、一八世紀の遺物を保管する古ぼけた殿堂から現代生活にもどると、すぐに熱烈な収集家になって専門家を志望し、しまいには美術や比較人類学の協会を創設するようになるかもしれない。しかし由緒ただしい尚古家も専門分化の時代の餌食になってしまい、いまや時代遅れよりも始末が悪く、彼ら自身が「歴史の問題」となる。つまり彼らの存在そのものが、諸思潮や世界観の変化という背景のもとに研究されるべき対象になったわけだが、それはまさに彼らが避けようとしたものだろう 。  尚古家の典型的な人物を検討してみよう。フランスのペレスク(Nicolas-Claude Fabri de Peiresc, 1580-1637)は、プロヴァンス地方の都市エクス近郊に生まれた。行政官や議会議員の家系である彼自身も行政官と議員をつとめ、一族の家財を管理運用し、学士どまりだが根っからの旅人気質で、病弱さや多忙な職務がゆるす以上に旅をした。エクスを誇りとして愛した彼は、当地でメダルや書物、植物・鉱物、科学機器に囲まれて死去することになる。 彼の死には、スコットランド語をふくむ異なる四〇の言語で追悼がよせられた。教皇ウルバヌス八世(Urbanus VIII, 1568-1644)の甥である枢機卿バルベリーニ(Francesco Barberini, 1597-1679)の後援によって、ローマの知識人協会「アカデミア・デッリ・ウモリスティ」は『饒舌』Panglossia という「人間哀歌」generis humani lessus を追悼作品とした。  ペレスクには刊行された著作がほとんどないが、古物についての小冊子が唯一の例外となる。しかし彼は法学者グロティウスから画家ルーベンス(Peter Paul Rubens, 1577-1640)にいたるまで、同時代の数多くの偉人たちに博識と機知にみちた書簡をおくった。数千もの書簡がエクスのメジャン図書館や、フランス南部の都市カルパントラにあるアンガンベルティーヌ図書館に所蔵されている。一部だけが一九世紀の歴史家タミゼー・ド・ラロック(Phillippe Tamizey de Larroque, 1828-1898)によって編纂され、記念碑的な書簡集となる。

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