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言いすぎか!!
弁護士北村晴男 本音を語る
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Vol.99
2020.8.15
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目次
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【1】 『李登輝さんに
日本の魂を学ぶ』
【2】 『北村晴男の"素"』
【3】 『番組出演予定
イベント情報』
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【1】 『李登輝さんに
日本の魂を学ぶ』
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台湾の元総統、李登輝さんが7月30日に亡くなられた。97歳だった。
台湾が親日国になった理由の一つに、李登輝さんの教育改革が挙げられる。
前回(7月30日)配信した「二・二八事件」での湯徳章(とう・とくしょう)さん(日本名、坂井徳章さん)などの内地人(日本人)が命がけで内省人(台湾人)を守ったこと、それに比較して外省人(中国人)があまりにもひどい圧政を行ったことが、台湾が親日国になった大きな要因であったが、これは年齢が上の世代の話。
だが、李登輝さんが総統になり(1988年)、日本統治時代の50年間について、「悪いものは悪い、台湾に貢献したことは貢献したこと」「台湾の子供たちに正しく日本と日本人を理解させなければ」と、たいへん公平な見方をされ、それに沿った教育改革を行ったことが若い世代にとっては大きかった。
日本の統治時代を知るお年寄りの記憶も大事だが、韓国や中国のように反日教育を猛烈にやっている国と、反日教育をやめて若者たちに公平な教育をしている台湾では、明らかに日本に対する国民感情が異なる。
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李登輝さんについて、いちばん驚かされることは、台湾を民主化へと導いたその手法だ。並の政治家では絶対に真似できない手法で、民主化を進めた。
李登輝さんが民意を味方に民主改革をするまでの台湾は、国民党による独裁の下、議会はあるが選挙はなく、何十年も同じ人が議員をやり続け、それが完全に既得権化しており、特権階級となっていた。メチャクチャで、現代の中国と変わらない。
李登輝さんは、1965年にアメリカのコーネル大学へロックフェラー財団およびコーネル大学の奨学金を得て留学、68年に農学博士号を取得して帰台、台湾大学の教授となる。「政治には興味がなく、農民を搾取する政策に怒りを感じ、農業政策ばかり熱く論じていた」と、親友の彭明敏(ほう・めいびん)さんは当時の李登輝さんを振り返る。
だが、本省人(台湾人)の友人や家族が驚くなか、1971年に国民党に入党。本省人(台湾人)でありながら外省人(中国人)の政党に入党したのだ。彭さんは「国民党を内側から変えようとしたのだろう。忍耐力のある李登輝らしいやり方だ」と語る。李登輝さん自身は「農政を担うにしても党員でなければ重要な会議に出られない。仕事がしたかった」と語っている。
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だが、就任直後は後藤新平(日本統治下、台湾総督府の民政長官、1898年~1906年)の「生物学の原則」(「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したもので、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。日本の制度をそのまま導入するのではなく、現地の制度を科学的に研究し、民情に合うように制度をアレンジして政治を行うべきだ」との考え方)に則り、既得権益層だった独裁体制をいきなり追い詰めることはしなかった。「ヒラメの目が横についているのはおかしいと言って、それを鯛のように付け替えようとしてもできるものではない」からだ。
「もっと台湾人を登用しなければならない」とも言わなかった。就任翌日から「ここは忍耐のしどころ。総統として仕事をする時期が来るまでは、頭を下げ続けるしかない」と、影響力のある長老を訪ね歩き、さらに蒋介石が祀(まつ)られる忠烈祠(ちゅうれつし)に毎日、頭を下げに出かけ、台湾人総統への反発を抑えたという。
自分が権力を持つまでは、余計なことを言わずに、淡々と仕事をこなして有能さを発揮し、「彼なら任せられる」と思わせて、真の総統になっていった。
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1990年3月18日、民主化を求める台湾大学の学生が始めたデモ「野百合学生運動」。中国大陸出身の守旧派への反発が爆発。何十年も改選されない「国民大会の代表退任」、民意を政策に反映させる「国是会議の開催」などを要求した。これに対し、「話し合いこそ解決の道」と学生に呼びかける。民主化を求める学生の真意を汲んだことで、若者らを味方につけ、民主改革が加速する。
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この頃、かつて中国大陸で選出された約700人もの代表(議員)が、台湾で終身の職位を得ており、それらの「万年代表」が高額の報酬を受け取りながら居座っていた。
この初代代表(議員)全員に、新たな住宅の提供とともに、多額の退職金を渡し、91年末までの退任を承諾させてしまう。
権力を持った長老たちの特権を奪って民主化するなど、軍事革命、クーデターでしかあり得ない。それを平穏に行ったところが李登輝さんの傑出(けっしゅつ)した手腕だ。
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2001年、李登輝さんが岡山県倉敷市の病院で心臓病の治療を受けるために来日を希望した際も外務省のチャイナグループおよび福田康夫官房長官(当時)が、中国の機嫌を損ねてはマズいと大反対。結局、森喜郎首相(当時)や安倍晋三官房副長官(当時)の尽力で来日が可能になった。
総統を退任して初めての、実に16年ぶりの訪日だった。
李登輝さんは中国本土と一線を画していたために、中国から「台湾独立勢力の象徴的人物」とみなされ、やたらと嫌がらせを受けていた。
それまでも、1994年の広島アジア大会への出席を断念、1997年の母校・京都大学創立百周年式典への出席を断念、2000年の長野でのシンポジウムへの出席を断念と、幾度となく外務省のチャイナグループが中国に配慮してビザを発給してこなかった。
2001年はすでに総統を退任しており、かつ病気治療であったにもかかわらずビザの発給を渋った日本政府に対して、李登輝さんは日本の記者団に「日本政府の肝っ玉は、ネズミよりも小さい」と言い放つ。当然だ。
2004年、慶應義塾大学「三田祭」での講演を依頼され、「日本人の精神」と題した講演原稿を用意していたが、直前になり、外務省のチャイナグループがビザの発給に難色を示し、結局、中止となった。
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