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伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』
第426号2021.4.20配信分
●4mの青大将が庭先にやって来た
私が生まれる2年前の1950年。川崎市の人口は31万9226人に留まっていた。
生まれは母親の生家があった静岡県三島市幸原。昔はそうだったという慣例通
り。いわゆる里帰りであり、茅葺き屋根に囲炉裏/土間/五右衛門風呂と牛舎
のある牧歌的な光景を覚えている。富士山からの雪解け水が流れる清流の近く。
祖父母の記憶が微かに残る。
当時の東京都は人口627万7600人。首都圏を構成する神奈川・千葉・埼玉の
合計は1305万0647人で、日本の総人口8411万4574人の15.5%に留まっている。
1950年代を記憶する者は漏れなく還暦を過ぎた今日この頃。この時代の牧歌的
な風景を昭和知らずの平成生まれに想像しろといっても無理だろう。
私が育ったのは多摩川を挟んだ神奈川県側の川崎市。1965年に政令指定都市
になり、現在地は高津区になっている。時は東京オリンピックの翌年であり、
私は橘中学校2年だった。当時の川崎市中部はまだ”地方”の味わいを残した。
武蔵野の前哨丘陵の西南端に位置し、多様な雑木林から成る緑の野山が続き、
多摩川から引かれた二ヶ領用水沿いに水田が広がる。通った橘小/中学校沿い
の市道は4年前まで未舗装で、中学に上がった春に関東初の高速自動車専用道
『第三京浜』が開通した。オリンピック開催年、高架から響く開通式パレード
のブラスバンドが耳に残る。
育った市営住宅は庭付き約50坪の木造平屋建て。将来的に払い下げの予定だ
ったらしいが、工業化の急拡大で人口が激増。川崎市役所は入居時の約束を反
故にした。私が成人した後も老朽化に悩まされながら50年近く姿を留めたが、
今は高層の市営アパートとして区画整理されて面影は跡形もなくなっている。
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