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言いすぎか!!
弁護士北村晴男 本音を語る
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Vol.117
2021.5.15
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目次
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【1】 『日本人の知らない中国
内政という名の植民地支配』
【2】 『北村晴男の"素"』
【3】 『番組出演予定
イベント情報』
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【1】 『日本人の知らない中国
内政という名の植民地支配』
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黄沙(こうさ)の原因はモンゴル人か?
楊海英(よう・かいえい)さんが著した『世界を不幸にする植民地主義国家・中国』(徳間書店、2020年)を読んだ。
楊海英さんは、1964年に南モンゴルのオルドス高原で生まれた。北京第二外国語学院大学日本語学科を卒業し、現在、日本に帰化(日本名は大野旭〈おおの・あきら〉)。モンゴルなど少数民族の歴史文化を研究し、数多くの本を執筆する静岡大学の歴史人類学教授。
本書を読んで、「なぜ、今、黄沙が世界中に被害をもたらしているのか」を知った。
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草原を開墾して沙漠化をもたらしたのは中国人であるにもかかわらず、環境破壊の罪はモンゴル人とその家畜群に転嫁された。遊牧民が何千年にわたって暮らしつづけてきても沙丘一つ現れなかったのに、中国人が侵略してきてから、たった30~40年で黄沙が世界中に飛散するようになった事実を政府は頑として認めようとしない。
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楊さんはこう述べる。
モンゴル人は、モンゴル国(いわゆる外モンゴル、旧モンゴル人民共和国)と中華人民共和国の中の内モンゴル(自治区)とに分断されて住んでいる。外モンゴルと内モンゴルは国境を接している。ここに民族の悲哀がある。
その、内モンゴルに中国人(漢人)が大量に入植し、遊牧民であるモンゴル人の豊かな草原を奪い、容赦なく犂(すき)や鍬(くわ)を入れて開墾した。これにより牧畜に適した豊かな草原は黄色い沙漠(さばく)に変えられてしまった。
開墾した土地が沙漠化すると、入植した中国人は、さらに別の土地を開墾する。結果、沙漠が無限に広がっていく。現在までに内モンゴルの草原の約60%が不毛な沙漠と化してしまった。
その沙漠化が原因で、黄沙が世界中に飛散しているのだという。
日本人の感覚では、わからない話。日本では、開墾すると農作物が豊かに育つ。しかし、降水量の少ない北・中央アジアでは、開墾は絶対悪。植被(しょくひ、大地を被(おお)う植物)を失った草原はたちまち沙漠化してしまうからだ。無知というほかない。
教育に力を入れる日本
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1911年10月、日本の陸軍士官学校卒の青年将校らを中心とした中国人の進軍兵士らが南国の武昌で叛乱を起こしてから間もまく、モンゴル高原の諸部も清朝に対して独立を宣言した。独立を主導したのはハルハ・モンゴル部の貴族王公たちと、内モンゴルから馳せ参じた、チンギス・ハーンの直系子孫たちだった。
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漢族が起こした辛亥(しんがい)革命(1911年)に呼応してモンゴル人は清朝からの独立を宣言し、ロシア革命(1917年)の後、1924年、彼らは長年の夢だった清朝からの独立を果たし、外モンゴルに社会主義によるモンゴル人民共和国を建国した。翌1925年、内モンゴル自治区に「内モンゴル人民革命党」ができ、モンゴル人民共和国との統一を目指していく。
一方、日本は満州事変を起こし(1931年)、満州国を建国(1932年)。その満州国は、いわゆる満蒙(まんもう)と呼ばれた地域で、その約3分の2がモンゴル人の住む内モンゴルの草原と満州人の住む地域だった。なお、満州国軍である日本軍の主力部隊にはモンゴル人部隊が含まれていた。
この地域は、1932年以降、日本からの支配と、漢人(中国人)からの支配の二重の支配を受けることになる。
ところが、モンゴル人は日本人の支配については、それほど嫌わなかったという。なぜなら、日本人は1941年の段階で335の学校を作るなど、教育に力を入れて近代的な知識を伝授。モンゴル人のエリートを育てると共に、モンゴルの近代化に貢献。モンゴル人の中には満州国の優秀な行政官や軍人になる人たちが多かった。
一方、中華民国政府は内モンゴルに学校を1校(国立イケジョー・アイマク中学校)設置したのみ。
日本はさらに、入国者の中国人農民と遊牧民のモンゴル人を棲み分けさせ、草原開墾を禁止した。生態環境に配慮し、先住民のモンゴル人を優遇。
そのために、満州国はモンゴル人民共和国にとっても、たいへん魅力的な国家だった。
だが、満州国のエリートとなったモンゴル人には、その後、日本が敗戦したことによって、「日本刀を吊るしたモンゴル人」と呼ばれ、中国(漢族)から粛清される運命が待っていた。
本当に気の毒だが、ここで言えるのは、日本も植民地支配をし、中国人も植民地支配をしたが、その植民地支配のやり方がまったく違っていた、ということ。加えて、日本はかつて内モンゴルを支配した旧宗主国として、内モンゴルに生きるモンゴル人の行く末を見守る責任がある、ということだ。
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7月14日、忘れません!
-長野高校野球班広岡信三監督秘話
読者の方より、私の母校、「長野高校の野球部の監督の話をしてほしい」というメールを時々いただく。そのリクエストにお応えして。
私が中学1年の時(昭和43年)、県立長野高校野球部は、夏の県大会決勝で岡谷工業に2対1で敗れ、7年ぶりの甲子園を逃す。とはいえ準優勝に輝いた進学校の野球部は、中1の少年にとっては雲の上の存在だった。
その準優勝チームの3年生が2年生だったとき、つまりその前年の話。エースの岩崎は3年生で、プロも注目する好投手。だが、野手の多くは2年生で、圧倒的な投手力とそこそこの打力で優勝候補の一角に挙げられていた。
結果、早々に(県大会1回戦)敗退するのだが、その負け方がマズかった。その敗戦は7月14日。
9回裏2アウトまで1点差でリードしていた。内野手は2年生。野手は、「ピッチャーの岩崎先輩、三振をとってくれ。お願いします」、「ピンチに自分のところにゴロがコロがってきたら怖い」という、典型的な下手な内野手の心理状態に陥っていた。そういう内野陣がエラーを続けて逆転負け。
監督は激怒。こんなにいいピッチャーがいて、甲子園も狙えるところだったのに、下級生が肝心なところで弱気を出して負けた。
誰でも試合に負けると悔しい。だが、1、2ヶ月もすると、負けた敗戦の悔しさを忘れる。次の大会まで悔しさを持続して、本当に真剣に練習を積み重ねるチームは少ない。その後は、「苦しい練習をこなすだけ」となり、強いチームに成り切れない。
監督はそれを恐れた。
中国の諺「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん)。固い薪(たきぎ)の上に寝て、復讐心を掻き立て、苦いきもを舐めて、会稽(かいけい)山での敗戦の恥を忘れずに、労苦を自身に課し、苦労を重ね、そして勝つ。
僕らもこの故事を敗戦の度(たび)に監督から聞かされた。だが、結局、いくらそんなことを言われても、悔しさを忘れてしまう。
監督は、怒りまくった挙句に考えた。そこで思いついたのが、毎日の挨拶の言葉を「7月14日、忘れません!」に変えることだった。
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