久米信行ゼミ「オトナのための学び道楽 」
毎月第1-4 火曜日発行 vol.40後編 2021/06/01 発 行
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5.久米のイチオシ
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【大タイガー立石展。4つの不思議富士】
ウカツでした。タイガー立石というスゴイアーティストに気づかずに生きてきてしまいました。
思い返せば、作品を見たことはあったのです。しかし、コロナ禍にも関わらず勇気ある開館を続ける千葉市美術館で「大・タイガー立石展~POP-ARTの魔術師」を見るまで、ここまで偉大な、それでいて面白い芸術家だとは知らなかったのです。
まずは展覧会のwebサイトにあるプロフィールを、ちょっと長いけれどご紹介しましょう。途中にちょっと驚くことも書いてあります。
======引用はじまり
絵画、陶彫、マンガ、絵本、イラストなどのジャンルを縦横無尽に横断しながら独創的な世界を展開した立石紘一、ことタイガー立石、こと立石大河亞(1941-98)。
1941年、九州・筑豊の伊田町(現・福岡県田川市)に生まれた立石は、大学進学のために上京。63年の「読売アンデパンダン」展でデビューし、翌年には中村宏(1932年生)と「観光芸術研究所」を結成。時代や社会を象徴する人物やイメージなどを多彩に引用して描かれたその作品は、和製ポップ・アートのさきがけとして注目を集めました。65年からは漫画も描きはじめ、「タイガー立石」のペンネームで雑誌や新聞にナンセンス漫画の連載をもつまでになります。60年代末から多くの子どもたちが口にした「ニャロメ」ということばは赤塚不二夫(1935-2008)と交流があった彼の造語でした。
マンガの制作が多忙になった1969年3月、ミラノに移住。のべ13年にわたるミラノ時代は、マンガからヒントを得たコマ割り絵画を精力的に制作する一方、デザイナーや建築家とのコラボレーションで数多くのイラストやデザイン、宣伝広告などを手がけています。
1982年に帰国し、85年から千葉・市原を拠点に活動します。90年以降は絵画や陶彫作品を「立石大河亞」、マンガや絵本を「タイガー立石」の名義で発表しました。
立石の作品はどの時期のものであっても、さまざまなできごとや観念が地層のようにつみ重なっています。このため、「見る」だけではなく「読む」ことによって、作者がつくり出した世界だけでなく、わたしたちの思考の回路も多次元にひろがるかのようです。
立石は1998年4月に56歳という若さでこの世を去りましたが、没後20年を過ぎ、生誕80年をむかえる今年、約250点の作品・資料によってその多彩な活動をふり返ります。
======引用終わり
そうです。赤塚不二夫のニャロメは、彼の造語だったのです。
時代ごとにまったく作品が変わっていて、それぞれ面白いのですが、何といっても生き方が面白い。
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