メルマガ読むならアプリが便利
アプリで開く

第139号(2021年7月26日) 夏休み読書企画「新しい戦争」論を掴む

小泉悠と読む軍事大国ロシアの世界戦略
存在感を増す「軍事大国ロシア」を軍事アナリスト小泉悠とともに読み解くメールマガジンをお届けします。 【目次】 ●夏休み読書企画 「新しい戦争」論を掴む ●今週のニュース ロシア国家親衛軍の大演習 ほか ●NEW CLIPS ロシア海軍創設325周年とS-500防空システム初公開 ●編集後記 「10万字の壁」 =============================================== 【夏休み読書企画】「新しい戦争」論を掴む  7月も終わりに近づき、いよいよ「夏本番」という感じになってきました。  我が家でもスイカとアイスの消費量が激増しまして、いよいよ夏休み始まったなぁという感じです。まぁ親父の方は別に休めるわけではないのですが。  というわけで今回は夏休み読書企画です。  テーマは「新しい戦争」論としてみました。  まず取り上げるのは、イスラエルの軍事史家として有名なクレフェルトによる『戦争の変遷』(原書房、2011年<https://amzn.to/3eShNGJ>)です。  本書は、戦争研究の古典であるカール・フォン・クラウゼヴィッツの名著『戦争論』との対話といった趣を持っており、そこでの中心的なテーマは、クラウゼヴィッツが描いた「戦争」とは本当に人類の普遍的な闘争形態なのか、とまとめられるでしょう。  クレフェルトはクラウゼヴィッツを非常にリスペクトしています。少なくとも近代における戦争を概念化する手腕において、クラウゼヴィッツが最も傑出した理論家であることは明らかであり、この点はクレフェルトも変わりはありません。  戦争とは国家の合理的な目的追求行為であることを示した「戦争とは他を以てする政治の延長である」という有名なテーゼ、そこでは戦闘の勝敗が決定的な意義を有するという「拡大された決闘」としての戦争の比喩、そして国家・軍隊・国民の「三位一体戦争」というビジョンは、ナポレオン時代から第二次世界大戦に至るまでの近代戦争を非常にうまくモデル化したものと言えます。  しかし、問題は「近代の」というところです。  クレフェルトが指摘するように、クラウゼヴィッツは自分が生き、実際に戦ったよりも以前の時代にはほとんど関心を示していません。そしてクレフェルトは、古今の西洋史を自在に駆使することで、近代以前には非クラウゼヴィッツ的な戦争の方が主流であったことを論証していきます。  そもそも近代以前にはクラウゼヴィッツが自明視したような「国家」というものは存在しなかったのだ、というのがクレフェルトの出発点です。したがって、暴力は教会、地方領主、都市、傭兵集団などに広く拡散して存在していたのであり、戦争は「三位一体」などではなかったとクレフェルトは主張します。  しかも、それは、国家以外の主体による「他を以てする政治の延長」でもありませんでした。戦争は宗教的信念、自らの生存、儀式などのために行われてきたのであり、場合によっては「魅力的だから」「楽しいから」という理由によってさえ行われてきた---これは現代では非常に挑発的というか、一部の人を激怒させそうな議論ですが、戦争という現象に関するスコープを広げて考えるならばたしかな事実でもあります。  しかし、この事実を受け入れるならば、戦争と人殺しを隔てるものはなんなのでしょうか。クレフェルトはこれを、相互作用に求めます。戦争が一方的な暴力行使ではなく、相手がこちらに立ち向かってきて命を危険に晒す可能性があること。これが戦争の本質なのであって、したがって国家による目的追求行為であるか否かを超えて戦争は成立しうるとクレフェルトは主張します。  クレフェルトの戦争観が現代性を持つのは、この点です。つまり、戦争が多様な主体による、多様な動機(「目的」とは限らない)に基づいた行為であるとするならば、現代がそうでないと考える理由はどこにあるのか。むしろ冷戦の集結によって米ソによる暴力の独占が崩れつつある今(本書の第一版は1991年に書かれていることに注意)、非クラウゼヴィッツ的な戦争こそが主流になっていくと考えるべきではないのか---  アル・カイダがハイジャックした旅客機を米国の富の象徴である貿易センタービルに突っ込ませ、イラクとシリアで「カリフ制の再興」を唱えるイスラム過激派「イスラム国(IS)」が一時的な領域支配を確立し、アフガニスタンが再びタリバンの支配下に戻ろうとしている今、クレフェルトのビジョンは大変な慧眼だったと言わざるを得ないでしょう。  また、戦争は目的追求行為とは限らない、という指摘は、21世紀に入ってから出てきたいわゆる「新しい戦争」論とも通底します。この言葉を最初に唱えたメアリー・カルドアは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の事例を通じて、非クラウゼヴィッツ的な戦争観では理解し得ない暴力行使のパターンを見出しました(メアリー・カルドア『新戦争論』岩波書店、2003年<https://amzn.to/3kO6J18 >)。  ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争では、国家の崩壊によって共産主義国家の蓄えた軍事力が軍閥や犯罪集団に広く拡散し、暴力の行使が日常茶飯事となりましたが、カルドアは彼らが「目的追求」のためにそれを行なっているわけではないと喝破しました。古典的な(=クラウゼヴィッツ的な)戦争観においては、敵を打倒して領土を獲得するとか民族の独立を達成するという何らかの「前向きな」目標が存在したのに対して、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の当事者たちにはそれがなかったとカルドアは述べます。  そこに存在したのはより「後ろ向き」な志向性であり、つまるところ戦争を続けるために戦争をするということです。というのも、戦争が続く限りにおいて軍閥や犯罪集団はある領域の住民を支配し、「税」を取り立てたり、資源利権をほしいままにできるのであって、戦争に白黒がついてもらっては困るわけです。  そこで彼らは暴力を他の武装勢力ではなく住民に行使し、互いを憎んで和解できないようにしたり、恐怖を植え付けて逆らえないようにする---このように、「新しい戦争」では暴力行使は何らかの決定的手段ではなく、暴力行使の継続そのものが目的になっているというのがカルドアの観察でした。つまり、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争では、戦争は国家によるものでもなければ目的追求行為でもなく、国家・軍隊・国民が「三位一体」となって戦うものでもなかったということです。  そしてカルドアは、「新しい戦争」がさらに拡大していくと予見します。第二次世界大戦後の世界では経済のグローバル化と軍事同盟によって近代国家は徐々に衰退しており、暴力を管理しきれなくなっているから、というのがその理由です。

この続きを見るには

この記事は約 NaN 分で読めます( NaN 文字 / 画像 NaN 枚)
これはバックナンバーです
  • シェアする
まぐまぐリーダーアプリ ダウンロードはこちら
  • 小泉悠と読む軍事大国ロシアの世界戦略
  • ロシアは今、世界情勢の中で台風の目になりつつあります。 ウクライナやシリアへの軍事介入、米国大統領選への干渉、英国での化学兵器攻撃など、ロシアのことをニュースで目にしない日はないと言ってもよくなりました。 そのロシアが何を考えているのか、世界をどうしようとしているのかについて、軍事と安全保障を切り口に考えていくメルマガです。 読者からの質問コーナーに加えて毎週のロシア軍事情勢ニュースも配信します。
  • 1,100円 / 月(税込)
  • 毎週 月曜日(祝祭日・年末年始を除く)