■英雄たちの運~週刊アカシックレコード210823■
元亀3年(1572)10月、甲斐国(山梨県)などを支配する戦国大名、武
田信玄は、天下人の織田信長と敵対する室町幕府将軍、足利義昭の
命を受け、大軍を率いて甲府を出発し、上洛を目指した。
当時、信長は尾張国(愛知県西部)、美濃国(岐阜県南部)、山城国
(京都府南部)などを支配していたが、信長の本拠地の岐阜と幕府や
朝廷のある京都(首都)を結ぶルートは近江国(滋賀県)北部を支配す
る戦国大名、浅井長政ら敵対勢力の軍事的脅威にさらされており、
長政は越前国(福井県東部)を支配する戦国大名、朝倉義景と同盟し
ていた。
他方、信長は三河国(愛知県東部)などを支配する戦国大名、徳川家
康と同盟して、信玄の脅威に備えていた。
当時、義昭は長政、義景、信玄に命じて「信長包囲網」を形成して
おり、武田の大軍を率いる信玄が三河国、尾張国、美濃国、近江国
を通って上洛を成功させることは、そのまま、信長、その家臣の明
智光秀と羽柴(豊臣)秀吉、信長の同盟者の家康がその一族郎党とと
もに滅びることを意味していた。
しかし、上洛の途中、信玄は持病を悪化させて急死し、武田の大軍
による上洛は中止された。これによって「信長包囲網」は崩壊し、
長政、義景はその一族郎党とともに信長に攻め滅ぼされ、義昭は京
都から追放され、権力を失った。また、これによって、信長のみな
らず、光秀、秀吉、家康の命も助かり、この4人はその後の日本史
において重要な役割をはたし、現在の日本人がよく知っている日本
史の流れを形づくった。
信玄は、この4人にとって、もっとも都合のよいタイミングで急死
したのである。
なぜこのタイミングで信玄は急死したのか(2021年8月23日頃配信予
定)。
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