久米信行ゼミ「オトナのための学び道楽 」
毎月第1-4 火曜日発行 vol.55 2021/09/28 発 行
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5.久米のイチオシ
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「カメラばあちゃん」増山たづ子さんと友だちの木
東京都美術館の「Walls & Bridges」展で、増山たづ子さんが写した「友だちの木」の写真と文章に涙しました。
「カメラばあちゃん」と慕われた増山たづ子さんは、プロの写真家でも文筆家でもありません。その作品はプロから見れば、素人芸の域を出ないでしょう。しかし、素朴な写真と文章には、村人や自然に対するあたたかな愛情があふれていて、観る人の心を激しく揺さぶらずにはいられないのです。
まずは、増山たづ子さんの数奇な運命と、カメラとの出会いをIZU PHOTO MUSEUMのWEBサイトからご紹介しましょう。同サイトには、カメラばあちゃんの写真や言葉、そして多くの方からの賛辞も紹介されているので、ぜひご高覧ください。
岐阜県徳山村で生まれ育った増山たづ子は戦争で夫を亡くした後、村で農業のかたわら民宿を営みながら暮らしていました。1957年、この静かな山村にダム計画が立ち上がり「皆が笑って過ごす天国のガイ(様)」と増山がいう徳山村も推進派と慎重派に二分されます。増山がそれまで使ったこともなかったカメラを手に取ったのは、徳山ダム計画が現実味を帯びてきた1977年、ちょうど60歳の時でした。「国が一度やろうと思ったことは、戦争もダムも必ずやる」と縄文時代以前から続くという村のミナシマイ(最後)を前に、せめて残せるものを残そうと愛機・ピッカリコニカで故郷の村をすみずみまで撮影して歩きました。
そんな増山はたびたびマスコミにも取り上げられ「カメラばあちゃん」の愛称で知られるようになりました。村民運動会で初めて写真を撮影して以降、年金のほとんどを写真につぎ込みながら1987年の廃村後も通い、2006年に88歳で亡くなるまで消えゆく故郷を撮り続けました。あとには約10万カットのネガと600冊のアルバムが残されました。
2008年、計画から半世紀を経て徳山ダムは完成し、かつて村のあった場所は水の底へ沈みましたが、残された写真は在りし日の徳山村の姿を今に伝えてくれます。
http://www.izuphoto-museum.jp/exhibition/118680489.html
老若男女、村人たちの笑顔の写真も素晴らしいのですが、今回、私がぜひご紹介したいのは、増山たづ子さんと「友だちの木」の話です。
友だちの木は、巨木でもご神木でもなく、川沿いに立つちいさな木でした。
しかし、増山たづ子さんにとっては、はじめて目が合った日以来、辛いとき、ひとりぼっちの時になぐさめてくれる特別な木だったのです。そのことを綴った方言まじりの文章を読んで、私は胸がしめつけられました。
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