■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』
第454号2021.11.16配信分
●振り返るとエンジニアと議論したのは働き盛りだった?
自動車メーカーにあって花形部門のひとつとされる開発部門。その中でも車
種ごとに存在する開発責任者は、時として芸能スターのように注目を集める。
トップメーカーのトヨタは1980年代にそれまでの『主査』をチーフエンジニア
(CE)と呼ばれる職制に変えた。初代クラウン=RS型の開発責任者として
部門横断的な権限を有する職制=主査を確立させた中村健也氏が日本のすべて
の製造業における象徴的な存在としての”主査”の嚆矢とする。
他メーカーにも 日産では開発主管(ゴーン体制となった1999年からCPS
=チーフプロダクトスペシャリスト、CVE=チーフビークルエンジニアとい
う役割分担制を敷いた)、ホンダのLPL(ラージプロジェクトリーダー)、
三菱自工やスバルのプロダクトマネージャー、マツダの主査など各社ごとに役
職呼称は様々だが、いわゆる取りまとめ役が存在している。開発責任者の人柄
がそのまま製品キャラクターに反映されていることも珍しいことではない。
ここで「ハタと気がついた」。クルマの世代感覚について、である。それら
の職制に着くのは(大学)新卒入社から20年ほど経過した40代のエンジニア。
専門はシャシー・ボディ・エンジン・デザインなど様々だが担当機種が”卒業
論文”の態をなす。販売が好調で無事審査(?)が通れば役員の道が開け、サ
ラリーマンとしては一丁上がりとなる。
もちろん例外はあって、かつてのナショナルブランドでは車名と開発者が一
体化して語られたこともある。日産の渡邉衡三主管(R32型の途中から就任し、
R33、R34型スカイラインを担当)やマツダの貴島孝雄主査(同じく初代NA型の
途中からNB、NCのローンチまで定年まで関わり、初代の平井敏彦主査以上に有
この記事は約
NaN 分で読めます(
NaN 文字 / 画像
NaN
枚)