表現者クライテリオンで「読書ゼミ」(
https://in.38news.jp/24bc_4980)を、毎月編集委員が持ち回りで開催しているのですが、今月、当方が選定したのが三島由紀夫の『葉隠入門』。
当方、三十過ぎに本書に触れて以来、決定的な影響を受け、今日に至るまでことある毎にこの書で紹介されていた一言一言を思い起こしつつ、日々の日常を処すようになった、という書籍です。
で、その中でもやはり、最も大きな影響を受けたのが次の一節でした。
「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり。
二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわつて進むなり。図に当たらぬは犬死などといふことは、上方風の打ち上がりたる武士道なるべし。二つ二つの場にて、図に当たるやうにわかることは、及ばざることなり。
我人、生きる方がすきなり。多分好きな方に理が付くべし。若し図にはづれて生きたらば、腰ぬけなり。この境危うきなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違いなり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。
毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果すべきなり。」
この言葉の最初の一言、「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり」は特に有名ですが、多くの現代日本人はこの言葉を冷徹で非人間的な「ヤバイもの」と見なしがちです。
しかし当時、この「葉隠入門」を通してこの言葉の全容に触れた時、そうした認識が如何に軽薄な誤解であるのか、それどころかこの言葉こそ人間、そしてこの世の不如意な真実を語る凄まじき言葉であることを理解したのです。
そしてその言葉の真実に我が全身と全霊がまさに焼け落ちん程の衝撃を受け、それ以後、この言葉に繰り返し毎朝毎夕触れ、全てそらんずる事ができる様になり、今日に至るまで自身の生きる指針とせんとする言葉となったのでした。ついては今回のメルマガは、この言葉をじっくり解説差し上げたいと思います。
まず、「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり」とはその言葉通り、武士道というものは、死ぬ事なのだと云うものです。それが一体具体的にどういう事なのかというと「二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。」というもの。つまり、生と死の決断を迫られる時が来たのならば、ただただ「死」を選択せよ、ということです。
こう聞けば実に危険で恐ろしき思想のように聞こえてきます。
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