一般の会社では、将来有望だった跡継ぎ一人が生きてさえいれば安泰なのに、その人物が急逝したせいで、会社傾き、倒産してしまった、ということが往々にして起こります。
同じ事は国家においても頻繁に起こり得ます。
例えば、大正時代に原敬首相が1921年(大正10年)に暗殺されましたが、その暗殺がなければ、その後の日本の歴史は全く変わったっものとなっていただろうとしばしば指摘されています。原敬は軍部をしっかりと抑えており、原敬さえ生きていれば、軍部の暴走を食い止める事ができたであろうし、日米外交も全く違った展開を迎え、太平洋戦争を導いたABCD包囲網という外圧が形成されることも無く、したがって、5.15事件、2.26事件が起こる流れすら無かったことも考えられます。
そう考えれば、原敬暗殺事件があったからこそ、我が国は大東亜戦争に突入し、対米戦争における圧倒的な敗北を喫し、平和憲法を押しつけられ、まやかしの主権しか持ち得ない戦後日本になり果せたと考えることができるのです。逆に言うなら、原敬暗殺事件がなければ、日中戦争を悪戯に拡大することもなく、満州、台湾、朝鮮半島の権益を確保しつつ、良好な日米関係、日中関係を保ちながら東アジアの超大国として君臨していた可能性があったのです。
つまりたった一つの政治家の暗殺は、一国の命運に対して決定的に重大な影響をもたらし得るのです。
当方は、安倍晋三暗殺は、原敬暗に匹敵する程の恐ろしき悪夢を呼び込み得る最悪の事件となり得る予感を感じています。
このリアルな歴史の流れ全体を踏まえたとき、その暗殺された人物の政治家としての偉大さとは無関係に、たった一人の政治家の暗殺が途轍もない悪夢を呼び起こす契機となるという事があり得るからです。
今、我が国は、財務省の暴走を食い止められるか否かで、すなわち、緊縮財政から積極財政に転換できるか否かで、地獄に落ちるのか落ちないのかが決定される重大な局面に立ち至っている、というのが、当方の歴史的認識です。
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