2022年 第 32号
【長尾和宏の「痛くない死に方」】
長尾和宏です。台風が接近していますね。往診の帰りに深夜のコンビニに
行ったら、お弁当もお惣菜もほとんど何もなくて、、軽くショックを受けて
います。お盆休みを直撃しそうな夏の台風。皆さん、準備は万全ですか。
毎年この季節になると、台風の停電に怯える。在宅酸素や人口吸引をされ
ている患者さんたちの顔が、何人も浮かび上がる。外部バッテリーは大丈夫
かな? しかし、そんな電話もままならないくらい、朝から晩までひっきり
なしで僕の携帯が鳴りやまない。それも患者さんではなくて、いつ会ったか
覚えてないくらいの人。知り合いの知り合いの知り合い。「コロナっぽいけ
ど、病院に行ったほうがいいの?」「イベルメクチンが手に入らないけれど、
どうすればいいの?」「やっぱり4回目、打ったほうがいいですか?」
うーん。申し訳ないけど、直接診られない限りは、僕が電話口でいえること
は限られている……当たり前だよね。「もっとハッキリ言ってくれ」と言わ
れるけど、そんな適当なこと、言えるわけがない。知らない人の電話の対応
でほんとうに困り果てているけど、きっと電話の向こうの人も、誰にも相談
できなくて、僕のところに電話をしてきたのだろう。悪いのは、システム。
昨年の夏と、なーーーんも変わってないよ、この国は。
携帯の声を邪魔するようにして、断末魔のセミが尼崎の空から落ちてくる。
死の直前まで空を飛び周り、突然訪れるセミの終末期。
それにしても、なぜセミは死ぬとき、仰向けになるんだろうか。空を仰ぐ
ようにして、事切れている。そもそもセミはみんな、ピンピンコロリ?
いや、人間と、人間に飼われている動物以外は、ほとんど終末期なんて一瞬
なのかもしれないね。野生を生きる動物のほとんどは、ゆっくりと死を迎える
前に、食べられてしまうだろう。
東京大学の小林武彦教授が書いた『生物はなぜ死ぬのか』(講談社現代新書)
には、こんなことが書かれていた。少し引用させていただく。
<少し残酷な感じがしますが、多くの生き物は、食われるか、食えなくなって
餓死します。これをずっと自然のこととして繰り返しており、なんの問題も
ありませんでした。つまりざっくり言うと、個々の生物は死んではいますが、
たとえ食べられて死んだ場合でも、自分が食べられることで捕食者の命を長
らえさせ、生き物全体としては、地球上で繁栄してきました。
寿命で死ぬ場合も基本的には同じで、子孫を残していれば自分の分身が生
きていることになり、やはり「命の総量」はあまり変わっていません。食う、
食われる、そして世代交代による生と死の繰り返しは、生物の多様化を促し、
生物界のロバストネス(頑強性、安定性)を繰り返しています。つまり生き
物にとっての「死」は、子供を産むことと同じくらい自然な、しかも必然的
なものなのです> ―――第5章 そもそも生物はなぜ死ぬのか より
小林教授の言う通りである。死は本来、次の命の繁栄のためにあるもの。
個々が氏を体験しても、生物としての命の総量は変わらず、それは未来へ
と繋がる行為である。生と、生殖と、死はそれぞれ同じ線の上にある。
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