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渡辺勝幸の日本一元気になるメールマガジン
第4357号 令和4年8月19日(金)発行
発行部数 11,521 部
【世に出ようと出まいと、自己の本質には何の変化もない】
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【世に出ようと出まいと、自己の本質には何の変化もない】
わたくしはこのごろ、
『漢書』の趙充國伝を読んで次のような感想を持ちました。
同伝の文字数千言、極力この名将の大略と、
老臣としての心事とを写していますが、
その記載は、だいたいにおいて宣帝の神爵元年、
充國の76歳以後のことであり、
その薨去は同帝の甘露二年、86歳の時でありますから、
もし彼が五、六十歳で長逝したとしたら、
罕幵をゆるして先零を誅せんとした策も、
屯田兵を置くことの便宜十二事を陳べた意見書も、
実行されずに終わったことでしょうし、
それでは史官も筆を下すすべもなかったことでしょう。
また彼が、壮士百余人と匈奴の囲みを潰して敵陣を陥れ、
みずからの身も二十余創を蒙ったということばかり
記載されているとしたならば、
その伝は一健将の事蹟にすぎないものになってしまいます。
しかしながら、後年のみごとな策略も烈々たる心事も、
その根本は、年若き日に将軍としての節制(指揮)を好んで兵学を学び、
四方の蛮賊の事情に通じた時に、すでにでき上がっていたのです。
ですから彼の才能は、七、八十歳になってやっと得たものではなく、
ただ世の人々が、その時になって初めて見ることができたというものに外ならないのです。
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