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INSTITUTE OF SUCCESS TECHNOLOGY JAPAN 第716 SEP 18 2022発行 “明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ!” >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> ※ 出典を明白にしていただければ、転送・引用は自由にどうぞ >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> ◇ 黒木安馬 未発表原稿を掲載 「地球見聞録 限定話のネタ本」  毎週「日曜」 月刊4回発行 有料 \300/月 配信メルマガ  購読登録は⇒ http://premium.mag2.com/mmf/P0/00/76/P0007692.html ☆*:..☆。O○☆○o。..:*゜*:..。o○☆○o。..:*゜*o○☆○o。*゜* ━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━ 明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ! マハトマ・ガンジー ━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━ 黒木安馬の著作(*^_^*)v~♪ 【雲の上で出会った超一流の仕事の言葉】 あさ出版 ¥1.540 【国際線30年で観た成幸者たちの法則】産経新聞グループ¥1.650を、 ⇒ 「黒木安馬署名&相手様の宛名を書入れ」て、1.500円 (@_@;)! 送料無料で郵送いたしますので、kuroki.yasuma@gmail.com へご連絡ください! FAX 0475-54-3479 ☆*:..☆。O○☆○o。..:*゜*:..。o○☆○o。..:*゜*o○☆○o。*゜* ⇒  令和の意味:中西進先生から ⇒ 「初春令月、気淑風和」 大宰府長官・大伴旅人 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━ ⇒ ⇒ ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽  3percent-club ⇒  切支丹悲話  anecdote ▲オランダの武装商船レイプ号など2隻は、平戸オランダ商館長クーケバッケルの号令で、15門の大砲から一斉に島原の原城に向けて426発の艦砲射撃を開始した。 火の手が上がり激しい攻防が続く8日目、城に立てこもる切支丹の反乱群から“矢文”が飛んできた。 「わが国には立派な武士がいるのに、なぜ南蛮人の援助を求めるのか、恥を知れ」と、武士道の魂に反する行動を非難する内容だ。 ▲徳川3代将軍・家光の時代、1600年の関ヶ原の戦いから37年後のこと、1637年(寛永14年)10月15日に長崎雲仙に近い島原で起こった切支丹一揆『島原の乱』。 オランダ船の砲撃は、4か月後の2月24日のことである。 老中・松平信綱は、12万4千人の幕府軍を動員して、籠城している37.000人の一揆群を鎮圧しようとしていた。 信綱の策略とすれば、「一揆の首謀者は、南蛮人と申し合わせて間もなく南蛮から援軍が来る旨を皆に説明して籠城しているはずだから、それは嘘だと言うことを覚醒させて落胆させるため同じ南蛮人のオランダ人に砲撃させる心理作戦」だった。 ▲ここで、ほとんどの日本人は、??と思うだろう。 キリスト教の日本人信徒が、幕府の禁教令とむごい切支丹弾圧に抵抗して立ち上ったのに、それをキリスト教国であるオランダが一揆群に援軍を送るどころか、幕府と一緒になって大砲で総攻撃した!? なぜ・・・・ ▲1543年、中国・明國のジャンク船に同乗して種子島に漂着した船のポルトガル人が、火縄銃二挺の鉄砲を持ち込んだ。 それから6年後の1549にはスペインのカトリック宣教師ザビエルが、鹿児島・坊津(ぼうのつ)に上陸して、仏教と神道の日本に初のキリスト教布教活動に入る。 刀と弓の戦争形態が様変わりして、鉄砲隊を組んだ織田信長は破竹の勢いで国盗りに向かう。 信長は、ザビエルを歓待して、西洋文明の先進利器と文化を積極的に吸収して行った。 ▲16歳で家督を継いで領主になっていた種子島時堯(ときたか)は、射撃の実演と威力に、その初めて見る利器に驚嘆して、現在の2億円相当の大金、2.000両で即座に買い取る。 種子島の鍛冶屋、八板清定(金兵衛)らが鉄砲鍛冶となってすぐに改良を加えて生産を始め、一年後には「種子島銃」を完成させる。 すぐさま紀伊の根来、紀州の堺、近江の国友村へ技術が伝播して、本格的鉄砲製造が始まる。 特に、堺の街は、織田信長や豊臣秀吉にも謁見している宣教師のルイス・フロイスが記録に残しているように、『東洋のベニス』として大国際貿易都市であった。 堺の街では職人たちが古代から引き継いできた製鉄知識や最先端の技術を持っており、海外では銃は一挺ずつ職人が手作りする時代に、すべて規格統一した部品を流れ作業で組み立て、口径も大きくて威力もある改良と高度な精密さで一気に大量生産した。 戦場における新兵器として火器が導入されるようになる。 種子島から20年もしない1550年には30万~50万挺以上が生産されて、日本での武器製造技術は格段に進歩し、ヨーロッパ全土で生産する鉄砲の総数をはるかに上回る量産国になる。 世界でもっとも精密で信頼性がある品質と評価され、オスマントルコなど海外輸出もしている。 その事実は、日本人は驚異の向学心と才能を持つ民族だと、様々の世界史に書き残されてる。 32年後には、織田信長は鉄砲を多用した戦いで甲斐武田を撃破するなど、領土拡大で快進撃を展開して国盗り物語の独壇場とする。 その頃の日本人口は、1.200万人、中国・明が1億5.000万人、朝鮮500万人、フェリッペ2世のスペインとポルトガル両国で1.000万人、オランダ150万人、英国400万人。

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