こんにちは。
梶原君のTwitterがのっとられて、グラビアアイドルさんのエッチな写真を添付して「かわいいー」と呟かれていたので、
僕も、Twitterをのっとられたフリをして、のっとられた梶原君のTwitterと、まったく同じツイートをしたところ…
梶原君のTwitterが凍結して見れなくなり、僕のスケベツイートだけが生き残り、
更には、そのグラビアアイドルさん(ご本人)から僕のツイートがリツイートされ、経緯を知らない人からすると、「シンプルにエッチな奴」になってしまったキングコング西野です。死にたい。
さて。
パリから帰ってきて、そのまま栃木に飛び、『藤城清治美術館』に行ってまいりました。
『えんとつ町のプペル美術館』の参考になることだらけだったので、少し整理して、明日の記事でお届けします。
今日は「文化の作り方」について前々から少し思っていることを皆様に共有したいと思います。
ギリシャ(ギリシャじゃなかったっけな?)の「善・悪」の捉え方が本質的で、日本では「善=良いこと」「悪=悪いこと」ですが、ギリシャでは「善=自分の為になること」「悪=自分の為にならないこと」と考えられています。
つまり、
「あの人を助けたい!」という自分の想いを実現させる為の『ボランティア』も「善」ならば、
「あいつを殺したい!」という自分の想いを実現させる為の『人殺し』も「善」なんですね。
ボランティアも人殺しも「善」なんです。
哲学者のナンチャラテレス(情報がアヤフヤ!)は「人は『善』でしか動かない」と偉そうに言っています。そりゃそうだ!
んでもって「文化」の話です。
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