林田直樹の「よく聴く、よく観る、よく読む」022年9月30日 Vol.400より
この夏はコロナにかかった影響で、9月はコンサートは1回しか足を運びませんでした。
9月10日のファビオ・ルイージ指揮NHK交響楽団のヴェルディ「レクイエム」。激情型の演奏に多く接してきたせいか、今回の演奏は音圧もそれほど強くなく、弱音重視型と感じました。この「レクイエム」に音響的なカタルシスを求めるのではなく、もっと静かな祈りの音楽として聴くことを求めている方向性の演奏だと思いました。
久しぶりに実演に接して感じたことなのですが、オーケストラ・コンサートというのは、音が鳴っていないときにこそ重要なことが起きている、それを目撃する場所でもあるということに改めて気が付きました。
スピーカーを通して音楽を聴いているとき、無音とは何も起きていない時間です。しかし実演では決してそうではない。音が鳴っていないときに、指揮者もオーケストラも、大きく息を吸い込んで、たっぷりと意味のある休符を奏でている。
本物のオーケストラとは、眼前に広がる交響的な全体性です。奥行きがあり、各所でいろいろなことが同時に起きている時間です。まるでひとつの大きな生き物のようにうねりながら呼吸している、有機体に出会う行為です。決してただの音響現象ではない。
久しぶりに出会う本物のヴェルディのレクイエムは、私がかつて知っていた情念的な音楽とは、別な姿をしていました。確かに同じ曲ではありますが、もっと冷静で、深い哀しみを帯びながらも、細部まで計算されつくした構造物のようでした。私がレクイエムを見つめると、レクイエムもこちらをしげしげと見つめ返してくる。
それがコンサートのいいところです。
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交響的全体ということでは、今年前半に印象に残った二つのコンサートのことも思い出しました。
一つは、3月2日に東京オペラシティコンサートホールで行われた武満徹の最大規模の実験的管弦楽作品「アーク」(カーチュン・ウォン指揮東京フィル)の公演。
オーケストラを庭のように設計するビジョンの持ち方がいかにも武満らしいですが、あのとき聴いていて感じたのは、さまざまな音が各所で鳴っている大きな全体の中を散策しているような時間と空間の、何と豊かなことだろうということでした。
もう一つは、6月9日に東京芸術劇場で行われたシャルル・デュトワ指揮新日本フィルによる創立50周年コンサート。デュトワの得意とする近代フランス音楽プロでしたが、音のバランスがとにかく完璧で、作曲家の書いたすべての音が明瞭に聴こえました。デュトワの音の仕事師ともいえる職人的態度にも強い感銘を受けました。
喜怒哀楽とか情熱とか、日本人はすぐにそういう感情的要素で物事の価値を判断しがちです。よく野球のヒーローインタビューで「どんな思いで打席に入ったのですか」「あのときのお気持ちを聞かせてください」と“思い”や“気持ち”ばかりを聞きたがるアナウンサーがいますが、そこで戦略とか技術が質問されることは滅多にありません。
デュトワの指揮者としての姿勢は、気合いとか情熱とか思いのたけを吐露するとか、そういう精神論的な価値観とは真逆のものです。熟練の庭師のように淡々と仕事をして、世にも美しい交響的な空間を見せてくれる。すべての音がどうあるべきかを完璧に把握しながら全体性をバランスよく作り出す「音の匠」なのだと思いました。
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先ほど更新されたONTONOの記事があるので、リンクを貼りますね。
https://ontomo-mag.com/article/column/hayashida-cd-10/
そこに書いたスティーヴ・ライヒの新作のことについて少し。
ライヒが30年ぶりにオーケストラ曲を書いたことにも驚かされますが、英国ロイヤル・バレエのためにバレエ音楽を書いたという事実も見逃せません。
いま現代音楽の世界にもっとも必要なのは、舞踊との、生身の踊る身体とのコラボレーションです。
そして、いま現代舞踊の世界にもっとも必要なものも、スピーカーから出てくる再生音楽ではなく、生身の演奏家が奏でる生の音楽です。
両者は、生の舞台で、お互い影響し合わなければいけない。
ライヒだってバレエのために曲を書いているのに、なぜ日本の作曲家はバレエの世界と一緒になかなか仕事をしないのでしょうか。昔は違いました。黛敏郎も武満徹も伊福部昭も、みなバレエ振付家のために曲を書いています。生身の踊る身体を眼前にすれば、きっと強烈なインスピレーションを与えられるはずなのに。
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