「小松成美の伝え方の教科書 ノンフィクション作家に学ぶコミュニケーション術」
vol.35「世界の蜷川幸雄氏に学ぶ、世界で戦うための仕事の流儀」
【今週の目次】
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1. 成美のつぶやき
└日本を代表する経営者・稲盛和夫さんについて語る
└JALを再建した稲盛和夫氏の人生の師とは?
└後世に残したい、稲盛和夫の経営哲学
2. 世界の蜷川幸雄氏に学ぶ、世界で戦うための仕事の流儀
└ 命がけでつくるシェークスピア
└ 人生のターニングポイントは大バッシングから始まった
└ なぜ、過酷さを伴ってでも立ち向かうのか?
└世界のニナガワはどうやって生まれたのか?
└役者から演出家になったあるきっかけ
└考え抜いた、誰に、何を、見せるのか?
└嵐・二宮和也の役者としての凄さとは、、?
└戦い続けた欧州との「葛藤」
└「芝居なんて、現実の重さに勝てるわけがない」
└世界を見たからこそ、アジアにこだわる
└「自分とは、何者か?」を追い求めた人生
3.小松成美の質問コーナー
4.お知らせ
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1. 成美のつぶやき
日本を代表する経営者・稲盛和夫さんについて語る
みなさん、こんにちは。
今回のつぶやきは、この夏、惜しまれつつ逝去なさった日本屈指の経営者、稲盛和夫さんについてお話ししたいと思います。
京セラを一代で世界的な企業に成長させ、経営破綻した日本航空の会長として再建に尽力した稲盛和夫さんは、2022年8月24日、京都市内の自宅で老衰のため亡くなりました。享年90歳でした。
多くの企業家やビジネスマンたちが、
「稲盛さんのような経営者になりたい」
「稲盛さんのように国や会社を思って仕事をしたい」
と心から仰ぎ見る存在であり、故・松下幸之助さんと並び“経営の神様”と評された稲盛さん。その人生哲学や経営哲学を広く伝えるため稲盛さんが設立した『盛和塾』は、高齢を理由に2019年に終了するまで、国内だけでなくブラジルやアメリカ、中国など海外にも支部が設置され、およそ1万5000人の塾生が参加するまでになっていました。
私は稲盛さんにはお会いしたことがなく、書籍や講演録を聞いたりして、経営者としてその趣向、哲学を知りました。
皆さんもよくご存知だと思いますが、ここで稲盛さんの来歴に触れたいと思います。
稲盛和夫という人は、日本において知らない人はいないほどその功績は大きく、京セラ(京セラ株式会社)の創業者であり、のちに日本のデジタル革命のスタートとなる第二電々企画株式会社(現在のKDDI)を設立した方です。
過去、日本の電気通信事業はNTT(日本電信電話公社)しかなく、国鉄と同じく国営企業でした。1984年、その国営企業が民営化される際に、電気通信事業の自由化に即応、NTTに対する新たな通信事業の会社を作るべく第二電電企画株式会社(DDI)を発足したのです。
そこにはどんな激闘があったのか、稲盛さんの本に詳しい記述があります。
京都のものづくりの会社であった京都セラミック株式会社、電気通信事業での経験、自身が培った経営哲学を若い人たちに授けようと、『盛和塾』の塾長となります。『盛和塾』は、1983年に稲盛さんが京都の若き経営者の方々から「いかに経営をすべきか教えてほしい」と依頼されたことを機に、25名で始まった会です。何度も依頼を受けるうちに、自らも社会のお世話になって今日があることに気付いた稲盛さんは、多少なりともそのお返しとしてボランティアで自身の経験を伝えていくことにしたのです。
「心を高め、会社業績を伸ばして従業員を幸せにすることが経営者の使命である」
とする稲盛さんの経営哲学を、多くの若い経営者が熱心に学び続けました。日本のみならず、世界に塾生がいて、2015年には塾生数10,000人を突破。ビジネスマンたちにたくさんの教えをもたらしてきました。
JALを再建した稲盛和夫氏の人生の師とは?
NTTと同じく国営だった日本航空(JAL)の経営が破綻した際には、JAL再建の大役を引き受けます。2010年1月、日本航空(JAL)は、2兆3,000億円という事業会社としては戦後最大の負債を抱えて、会社更生法の適用を申請し事実上倒産しました。政府から強い要請を受け、日本航空の名誉会長に就任した稲盛さんは、「国がつくった企業の古いプライドを民間企業になった後も引きずっている」と強く指摘し、当事者意識や危機感、社員の一体感の欠如が顕著だと、言い放ちました。
もはや再建は不可能と言われていた旧態然としたJALに、独自の経営哲学「フィロソフィ」と、会社全体を機能ごとに「アメーバ」と呼ばれる小さな組織に分割する「アメーバ経営」を導入し、見事にJALの再生を成功させました。
私が何より心を揺さぶられたのは、稲盛さんが、私が心より尊敬する明治維新の立役者、西郷吉之助(隆盛)を人生の師にしていたことです。
西郷さんをお手本にしていた稲盛さんは、西郷さんが大好きであることを公言し、西郷さんのようにあろうと、自らの人生の歩みはもちろん、経営に勤しんでいました。
そのことにシンパシィを感じ、好奇心を掻き立てられていた私は、昭和・平成・令和という時代に西郷さんのようにあろうとしたその人に、憧れを抱きました。
稲盛さん自身も色紙を頼まれたり書を揮筆するときに、西郷さんの「敬天愛人」という語を用い、京セラの社是にもしていました。
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