池田清彦のやせ我慢日記
/ 2022年10月14日発行 /Vol.225
INDEX
【1】やせ我慢日記~構造は機能に先行する~
【2】生物学もの知り帖~菌類は植物より動物に近縁なのになぜこんなにも見てくれが違うのか~
【3】Q&A
【4】お知らせ
『構造は機能に先行する』
昔から、機能と構造はどちらが第一義的かという議論があって、前者を機能第一主義、後者を構造第一主義ととりあえず呼ぶとして、前者はこの世界の構造(システムや形態や道具)は何らかの目的を遂行するために存在するという考えであり、後者は機能は構造から派生する随伴的な性質だとの考えである。
人間社会で暮らしていると、身の回りの大概の物は人の生活に役立つ物なので、機能第一主義を受け容れるのは容易い。生物であるヒトは生きるために様々な営為を行わざるを得ず、ただ存在するだけでは死んでしまうからである。翻って、人類とは独立の無機物には、機能第一主義は無縁である。
例えば、太陽系は何らかの目的を遂行するために存在しているわけではない。もちろん太陽がなければ、人類は存続できないから、太陽は人類の存在にとって大きな役割を担っていることは間違いないが、太陽は人類の生存のためにあるわけではなく、太陽が存在する故に人類はその恩恵を蒙って生きていられるのである。すなわち人類の生存は、太陽の存在から派生する随伴的な機能なのである。ここでは機能第一主義は成り立たない。
一方、機能第一主義は、生物界の説明原理として根強くはびこっており、生物の構造は何らかの機能を遂行するために存在すると信じる人は多い。それは、生物は、繁殖して子孫を残さなければ、絶滅してしまうので、生物の究極目的は子孫を残すことであり、生物の構造はそのための装置だとの考えが、かなりの説得力を持って受け容れられているからであろう。
しかしこの手の考えはどうも私にはうさん臭く思われる。私見によれば、生物というシステムは、繁殖のための装置として作られたわけではなく、なぜか知らないが存在してしまった結果、繁殖という機能が随伴したのである。だから、生物は繁殖を最適化するために作られているわけではなく、とりあえず、絶滅を回避できる最低限の繁殖機能を持つ装置としての生物体でありさえすれば、出来の悪い装置でも、存在できるわけである。
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