2022年 第 42号
【長尾和宏の「痛くない死に方」】
長尾和宏です。秋が深まってきましたね。空高く、今日本が一番美しい季節なのでは
ないでしょうか。一昨日(20日)は東京都板橋区で、日本尊厳死協会主催での講演会。
そして昨日(21日)は、鹿児島医師会にお招きいただき、人生会議についてお話をさ
せていただきました。大勢の人に集まっていただいてほんとうに嬉しく思います。
僕も、東京と鹿児島で、それぞれ違う秋の空気を満喫させていただきました。
今、日本尊厳死協会のリビングウイルノートの改訂版を編集中です。
それもあって、この秋は、久しぶりにリビングウイルや人生会議のお話をすることが
多くなっています。コロナは、「ひとりも、死なせへん」なのですが、僕の講演の多く
はそれまで、穏やかに、自然に、痛くない死に方はどうすれば実現可能か? という
ことでした。コロナ禍が厳しかったときは、「死」のお話はしたくでもできませんで
した。だから今こうして、ふたたび「死」のお話を求められているということは徐々
に穏やかな日常が戻りつつあることの証左でしょう。平和だからこそ、冷静に「死」
を考えられる。「死」を言葉に出来ない時代というのは、裏を返せば平和ではない気
がします。
皆さんからよく、「リビングウイル」と「人生会議」の関係性についても、よく訊かれ
るようになりました。そもそも、「リビングウイル」もまだ国民に普及されていないの
に、そこに厚労省が、「さあ、人生会議を!」と言い出したわけですから、皆さん混乱
するのは当然です。この二つは、連続していますが違う概念。
「リビングウイル」とは、他の誰でもない、あなたの意思を書いて残しておきましょう
ということ。遺言と間違えられるのですが、遺言ではありません。遺言は、死後にどう
してほしいか、ですよね。リビングウイルはそうではなく、もう回復の見込みがない、
人生の最終段階において、どのように過ごし、人生を終わらせたいか? という「死
ぬ前」のあなたの希望です。だから、日本尊厳死協会の「リビングウイルノート」は、
巷にある「エンディングノート」とは似てて非なるものなのです。
それに対し、「人生会議」というのは、その人のリビングウイルを、家族や医師やコメ
ディカルが、どう支援して、よりその人の希望に寄り添えるのか、ということ。
つまり、「リビングウイル」がなければ、本来、「人生会議」は成立しないはず。
リビングウイルなしの人生会議は、(もしもすでに本人と意思疎通できない場合は)
本人はこう思っているはず、という周囲の「憶測」によってしか会議が開けなくなる。
主役がいないのに、脇役だけで物語が進んでいくようなもので、これでは人生会議
ではなく、ただ、「この人をどう死なせるか」という今までの医療体制と何も変わら
ことになります。
今回、改訂版を作るにあたり、「リビングウイル」と「人生会議」をうまく表すため
何かイラストで表現できないかと、日本尊厳死協会の岩尾理事長や北村副理事長など
とああでもない、こうでもないと話しあいました。
北村先生は、「リビングウイル」はテーブル。「人生会議」はそこに集まる人たち。
と表現しました。テーブルがなければ、人は集まれないからと。確かに。
あるいは、あるスタッフは、「リビングウイル」は土台。「人生会議」がそこに立つ
家、とも言いました。確かにそうです。土台がなければどんな立派な家も崩れてし
まう。
いろいろな意見を出し合って、では、この関係性を描くイラストは「リビングウイル」
が花瓶、「人生会議」が花、としてみようか、という話になりました。
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