ご機嫌よう!
足利尊氏公(1305〜1358年)は、
「文武両道は車輪のごとし。
一輪かければ人を渡さず。」
と言った、と伝えられています。植芝盛平先生の道歌にも、
「古より文武の道は両輪と稽古の徳に身魂悟りぬ。」
という同じ意味の言葉があります。武士という者も、ただ武術に強いだけでは勤まらなかったのてす。武術にたけた上で、知略にも優れていなければ、連戦錬磨はできませんでした。武士の使命というのは、一回戦に勝つだけではだめで、連戦連勝し、自分の領土を広げることにありました。
上杉謙信公(1530〜1578年)は、川中島の合戦で、夜のうちから兵力を動かしたため、まず初戦で早朝に、
戦国最強と言われた武田信玄公(1521〜1573年)の度肝を抜きました。そのため、武田勢は、信玄公の弟・信繁公と山本勘助を失い、打撃を受けました。また、『坂東武者の鑑』と言われた畠山重忠公(1164〜1205年)は、武蔵国二俣川が戦場となった際、周囲が見渡しやすい地の利を利用し、北条軍の度肝を抜きました。
また、重忠公は、北条方が放った矢で命を落とす直前に、二本の矢を地上に立てて、
「我正しければ、この二本から草木が這出よ。」
と言った、と伝えられています。二本の矢、というのは、
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