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佐々木俊尚の未来地図レポート 2022.12.12 Vol.734
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【今週のコンテンツ】
特集
立て板に水のコミュニケーションには「信頼」は必ずしも存在しない
〜〜〜「お気持ちによりそう」だけでも「論理的な議論」だけでもなく
未来地図キュレーション
佐々木俊尚からひとこと
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■特集
立て板に水のコミュニケーションには「信頼」は必ずしも存在しない
〜〜〜「お気持ちによりそう」だけでも「論理的な議論」だけでもなく
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古い話で恐縮です。わたしが大学生だったとき、友人のふたりが不動産会社に就職しました。どちらも営業職です。ひとりは東京出身で、頭の回転が速く弁が立ち、立て板に水でしゃべるタイプ。彼をA君としましょう。もうひとりのB君は東北出身の木訥とした雰囲気で、寡黙で口べた。自分の思ったことをすぐに口で言い表せないというようなタイプです。
ふたりがそれぞれ別の不動産会社に就職し、友人たちは本人たちのいないところでは「いくらなんでもBは営業マン無理だよなあ。なんで営業職なんか選んじゃったんだろうね」と憐憫の入った感想を口にしていました。あんなに口べたじゃあ、営業トークなんてできないだろうと思ったのです。
そして就職から数年が経ち、風の噂にふたりの仕事ぶりが耳に入ってきました。なんと「営業に向いていないだろう」と思われていたB君は、配属された支店でもトップの営業成績を挙げ、将来を嘱望されているとのこと。いっぽうで「立て板に水」のA君は営業成績は散々で、転職を悩んでいるという話も聞こえてきていました。
弁が立って「立て板に水」のA君のような人は、コミュニケーション力が高いと思われがちです。しかしそうした人の信頼度が、必ずしも高くなるわけではないということが、この二人のエピソードからは伝わってきます。
もうひとり例を挙げましょう。わたしの家がお世話になっている、長野のカーディーラーの男性スタッフです。中古の軽自動車をそのディーラーで購入し、
修理や定期点検、車検などはその中年のおじさんにいつもお世話になっています。車検に出す際には片道1時間近くもかけてクルマを運びに来てくれるなど本当に助かっているのですが、この人が実にいろいろ抜け落ちている。2回に1回は書類のひとつを忘れてくるし、あとから「すみません、ここに署名捺印をもらうのを忘れてました」と情けない声で連絡してくることもしばしば。ディーラー店頭でのやりとりも手際が悪く、たぶん他のスタッフの倍ぐらい時間がかかってるんじゃないかと思います。
でも、わが家はこの男性スタッフに絶大な信頼を寄せているのです。なぜかと言えば、「絶対に人を騙すことをしなさそうな人柄だから」。これに尽きます。抜けてる部分も多くしゃべり下手なのですが、見るからに善人で信頼できるのです。おまけに車検ではわざわざクルマまで取りに来て、車検が終わったら届けてくれる。いくら事務作業が雑でも、信頼できないわけがありません。
結局のところ、信頼というのはこういうことではないでしょうか。それは立て板に水のトークではなく、美辞麗句でもない。人として安心して付き合えるかどうかということでしょう。
ここで補助線を引きましょう。「エトス」という思想的な用語があります。
近代の意味としては、エトスはある時代のある民族の社会が持っている、性質や特徴のようなものです。ここからしばらくは今回の本題とは少しずれる教養話になるので、興味の無い人は飛ばしていただいても構いません。
エトスをこの文脈で使った本としていちばん有名なのは、20世紀初頭のドイツの社会学者マックス・ウェーバーが書いた「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でしょう。この本は、なぜ近代のヨーロッパで資本主義が発展してきたのかをキリスト教の観点から分析した名著です。道徳的なキリスト教と、カネ儲けの資本主義。一見すると相反するもののように見えますが、実はこの二つには強い関係があったのだと解き明かしたことがこの本の凄さです。
この本にはこういうことが書いてあります。ヨーロッパの中でも資本主義がいち早く発展したのは、オランダやイギリス、アメリカのようなプロテスタントの一宗派であるカルバン主義の影響が強い国でした。いっぽうでカトリックのイタリアやスペインでは出遅れたのです。
なぜか。カルバン主義では、神の力がとても強いと考えられています。救われる人間というのはすでに神によって決まっていて、人間がいくら努力しても神の決定を変えることはできません。すでに決まっているのだから、いくら善行を積んでもムダなのです。そのうえ誰が救われ、誰が救われないのかという選別を人間が知ることもできません。
これはたいへん恐ろしいことです。もし善行を積んだり努力すれば救われるという因果関係があるのであれば、頑張ることもできます。しかしすでに生まれたときから決定しているのであれば、頑張っても無意味なのです。
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