今週のざっくばらん
マウナロアの噴火
12月2日に日本からハワイ島に戻りましたが、待ち受けていたのはマウナロアの噴火です。
ハワイ島は、活火山のある島として知られていますが、観光名所になっている火山はキラウエアで、私の家があるコナや、古くからの街であるヒロからは離れた島の南東にあります。
しかし、今回38年ぶりに噴火したのは、マウナロアで、こちらはコナやヒロにも近く、200年ほど前の噴火の際には、コナの空港にまで溶岩が押し寄せたことがある巨大な火山です。コナの空港のある場所は、その噴火までは魚を養殖するためのフィッシュポンドだったのですが、流れて来た溶岩がそれを埋めてしまい、その跡地に空港が作られたそうです。
噴火直後は、どちらに溶岩が流れるか分からず、付近の住民を不安に落とし入れていましたが、カルデラから溢れ出した溶岩が流れる方向が確定すると、わずか数日の間に新たな観光名所になってしまうという、いかにも「活火山と暮らすハワイ島」ならではのライフスタイルが観察できてとても興味深いところです。
北に向かって流れ始めた溶岩は、コナとヒロを結ぶ幹線道路(Daniel K. Inoue Highway)からわずか2.4マイル(約4キロ)のところにまで迫りました。ハワイ島の経済活動にとってはとても重要な幹線道路ですが、コナからもヒロからも1時間弱で来れる場所という便利さもあり、流れる溶岩を一目見ようと大勢の人が訪れています。
私自身も3日の夕方に一度トライしたのですが、かなり手前から渋滞が始まっており、一度退散しました。そこで5日の早朝に再度トライし、かなり近くにまで行って、溶岩を観測することが出来ました。
現地では、米軍の兵士が交通整理をしていましたが、幹線道路から分岐している山道をあえて一方通行にし、途中で車を路側帯に停めて安全に火山が観測できるようにしてある気遣いに感心しました。野放しにすると大渋滞を引き起こすし、危険な行動をする人もいるので、あえて観測しやすい環境を作ることにより、人の流れをコントロールしているのです。こうしておけば、いざという時の避難の誘導も簡単です。
戦争や災害の際の、群衆のコントロールは、軍にとっての重要な仕事の一つですが、その良いトレーニングの場にもなっているように私には見えました。
火山の噴火で一つ困ったことは、家にテスラルーフを取り付ける工事が止まってしまったことです。カルフォルニアから技術者が来て取り付け工事の指揮をする手筈になっていたのですが、噴火の状況を見極めるために、2週間ほど工事を見合わせることになってしまったのです。
UIEvolution起業話(8)
UIEvolutionを立ち上げた時点で「技術的になにを作るべきか」は、明らかでした。Sun Microsystemsから入手したWireless Toolkit(MIDP/J2ME)上に作ったUIEngineを、さまざまなプラットフォームに移植することと、開発環境を整備することです。
今では、デバイス向けのOSは、AndroidとiOS(およびiPadOS/tvOS)の二強が支配していますが、当時はOSやVMが乱立しており、クロスプラットフォームな開発環境がなければ、アプリケーションの市場が立ち上がらないことは明らかでした。最終的には20種類ぐらいのOSやVMをサポートしましたが、まず取り組んだのは下の6つのプラットフォームです。
MIDP/J2ME(Sun Microsystems)
MIDP/DoJa (NTT DoCoMo)
Sidekick OS (Danger Research)
BREW (Qualcomm)
WindowsCE/PocketPC (Microsoft)
Embedded Linux
開発環境としては、UJMLという記述型の言語を定義し、ユーザーインターフェイスを状態遷移を使って記述するリアクティブな開発環境(コンパイラ、エミュレータなど)を提供しました。当時はまだ、Reactも存在しない時代だったので、リアクティブなプログラミングに慣れていないエンジニアからは、批判もありましたが、私自身はとても気に入って、さまざまなデモアプリやサンプルゲームを量産していました。
特に自信作だったのがエミュレータで、ネットワークの遅延やエラーをエミュレートすることにより、遅延やエラーの多い通信環境で心地よいユーザー体験を提供するアプリケーションを作ることを可能にしました(当時のワイアレスネットワークは、ようやく2Gから3Gに移り始めた時代で、通信速度もとても遅かったのです)。
Microsoftでは、「時代が必要としているもの」さえ作っていれば誰かが売ってくれたのですが、誕生したばかりのベンチャー企業にそんな影響力はなく、ビジネス側ではとても苦労しました。
最初の売り上げは、Qualcommからのもので、当時、携帯電話向けのOSとして発表したばかりのBREW OSのマーケティングに使う、簡単なデモアプリを提供したのです。BREWのような全く新しいOS向けにアプリケーションを作りたがる会社などありませんでしたが、BREWが発表されたとたんにUIEngineの移植を始めたうちの会社は、そこに関してはどこよりも先んじており、一旦 UIEngine の移植が完了すれば、デモアプリの開発などとても簡単だったのです。
2番目の売り上げは、通信事業者のT-Mobileが発売を決めたSidekick向けのゲームの提供です。Sidekickは、Danger Researchという会社が開発したティーンエージャー向けの携帯端末で、ページャーと携帯電話を合体させた、なかなか画期的なデバイスでした。しかし、独自のVMを持つ特殊なOS(ただし開発言語はJava)だったこともあり、そんなデバイスにアプリケーションを作りたがる会社は他におらず、UIEngineをさまざまなデバイスに移植したがっていた私の会社に白羽の矢が立ったのです。
ちなみに、Danger Researchは、後にAndroidを創業したAndy Rubinが創業した会社で、開発の過程で何度かミーティングをしましたが、Andyは、Sun Microsystemsからライセンスを受けずに、独自のVMを開発したことをやたらと自慢していました。
結局、Dangerは市場では成功することは出来ず、Microsoftに会社ごと買収されましたが、Andyは買収前にDangerを辞めて、Androidを設立し、それをGoogleが買収したという経緯があります。この経緯だけを見れば、Danger Research で作っていたVMをベースに Android OSを作ったように見えますが、MicrosoftがGoogleを訴えなかったところを見ると、そもそも Danger Research が Sun Microsystems の特許侵害をしており、それに気がついた Microsoft は何も出来なかった、と解釈すれば説明ができます。ちなみに、Googleは、Android を買収した後に、Sun Microsystemsから特許侵害で訴えられ、最終的には金銭で解決しています。
話は前後しますが、GoogleによるAndroidの買収の1年ほど前に(2004年)、GoogleとUIEvolutionの間には、Google TVのUIプラットフォームとして、UIEngineを採用する、という交渉が行われていたことを付け加えておきます。GoogleはUIEngineのソースコードをオープンソース化することを条件として交渉して来たのですが、そのころの私はオープンソース化することの重要さを理解しておらず、それを拒否したために交渉が決裂してしまいました。
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