あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。普段なら、動向と展望をお送りするところですが、少し前に夏のことを中心にまとめたので、今回は去年の新作となる英語論文の邦訳をお届けします。といっても、僕の博論の1章をもとにしたもので、この論文は、アリストテレス関係の書籍に強いロンドンのブルームズベリー出版から予定されている『アンドレア・チェザルピーノとルネサンス・アリストテレス主義』という論集に寄稿したもので、2023年に出版の予定です。
「チェザルピーノの鉱物学:気象論とキミアのはざまで」(前編)
はじめに
1592年にアンドレア・チェザルピーノ(Andrea Cesalpino, 1524/5-1603) は、教皇クレメンス八世(Clemens VIII, 1536-1605)によってローマに招聘され、ラ・サピエンツァ学院の医学教授となった。ローマに到着後、彼は昔の教え子ミケーレ・メルカーティ(Michele Mercati, 1541-1593)がヴァティカンの鉱物コレクションを管理する任務を担っていることを見出している。
しかしメルカーティは『メタロテカ』Metallotheca の手稿を未完のままで、すぐにこの世を去ってしまう。この手稿の欠損部を補完するために、チェザルピーノは鉱物学の研究をはじめ、彼の努力は1596年の『金属性物質について』De metallicis の出版によって結晶化する。
チェザルピーノ自身の言葉によれば、この著作は専門的な文献の読解に多大な時間をかけられない人々にとって有益な「手引き書」compendium だという。しかしそれは、テオフラトスやディオスコリデス、プリニウス、ガレノス、アヴィセンナ、マルボード、アルベルトゥス・マグヌスといった古代や中世の著作家たちの鉱物学書についての驚くほど深い知識を示している。
同時代の著作家では、チェザルピーノは名前を挙げずに、とくにドイツの医学者で自然学者のアグリコラ(Georg Agricola, 1494-1555)の著作を利用している。たしかにアグリコラの作品群に匹敵する16世紀の鉱物学書は存在しないが、チェザルピーノの著作は厳格なアリストテレス流の視点から執筆されており、アグリコラの仕事への批判的な応答と見做せる。
どのような基準にそって、チェザルピーノは自身の鉱物学を打ちたてたのだろうか?なぜ彼はアグリコラの体系は問題があると考えたのだろうか?彼は当時流行していたキミア(錬金術と化学を恣意的に区別しない知の伝統)の学説にたいしてどのような態度をとったのか?彼は生物と鉱物の違いをどのように捉えたのか?
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