2023/1/16 田村耕太郎の「シンガポール発 アジアを知れば未来が開ける!」Vol.420
差別とはステレオタイピングのことである
国民の4分の1以上がこの国で生まれていないこの国にいると、私もこの国の人と思われ、道を聞かれることもある。
それくらい、「この国の人」というイメージは多様である。ガイジンという言葉は世界で死語になっている。シンガポールにいても欧州にいてもアメリカにいても中東にいてもそう感じた。
日本人は日本人以外は全員ガイジンに見えるかもしれないが、サッカーワールドカップの各国代表をみても、わかるように、まさにフランス人とかイギリス人とかひと昔前のイメージとは違う。
日本人は差別に敏感でちょっとでもレストランなどで不快な扱いをされると人種差別されたと騒ぐが、ガイジンとか言ってること自体が強烈な差別なことであること鈍感である。ガイジンに丁寧に「さん」付けしてもそれは立派な差別である。
対等に扱わないことを差別というのだから。日本のプロ野球における助っ人ガイジン選手の扱いとアメリカの大リーグにおけるアメリカ生まれでない、アメリカと違うパスポートも持つ選手の扱いにそれがよく表れている。
メジャーリーグの選手=アメリカ人じゃないし、アメリカで生まれていない選手もアメリカ以外のパスポートを持つ選手も同じ待遇で扱われている。日本におけるガイジン助っ人とは期間限定の存在でいつかはいなくなってくれる存在に過ぎない。我々日本人はガイジンに日本にずっといてほしくないのだろう。
昔、ジョークで「アメリカ人とドイツ人とイギリス人とフランス人を見分けるならこうしろ」みたいなものがあったが、今は完全にアウトというか意味がないだろう。もちろん、その国らしさはおぼろげながらは存在するだろうが、各国とも多様性が大いに増してそういうものが当てはまらない人だらけだ。
世界中が世界のタレントに門戸を開き始め、そのために対等な地位を与え、多重国籍も認め、それに慣れてきた国民はステレオタイプ化をやめ、違いをリスペクトしながら共生する道を選んでいる。もちろん、たまに相互の理解の不足から不幸な衝突が起こっているが、それを乗り越えながら前進している。そのほうが国が豊かになることに気づいているからだ。賢く寛大なものの考え方の転換だ。
アメリカ人はこう、フランス人はこう、とかステレオタイプ化が無意味になり、それは性別や性的指向にも広がっている。男性だからこう、女性だからこう、男は女が好き、女は男が好き、でもないことへの理解は進み、色んなカップルが普通に街を歩いている。
男女の賃金は当たり前に同等で、家の家事の分担も公平だ。奥さんが料理する日は旦那さんが後片付け、旦那さんが料理する日は奥さんが片付け。
この国ではほとんどのお店が5時くらいに閉まる。誰もが家族と夕食を共にするためだ。コロナ後はその傾向は強まり、いくら払っても残業する人はあまりいないという。
人々は、自分を自分以下にも自分以上にも見せることに関心がなくなり、あるがままに自然に生きている。お互い他人に関心がないので、よほどの機会がない限りは、ストレスフリーな楽な格好を選び、リラックスして皆が闊歩する。もはや何人が自国人でも構わない。
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