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渡辺勝幸の日本一元気になるメールマガジン
第4532号 令和5年2月10日(金)発行
発行部数 11,480 部
【物の大小ではなく、義の大小】
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【物の大小ではなく、義の大小】
本章は、前章に「その有に非ずして」云云、
自分の所有でないのにそれを取るのは、義でない、
とあるのに関連して、
陳仲子のいうところの義は大義とするに足らず、
ただ「箪食豆羹を舎つるの義」、
少しばかりの食物を、義に合わぬからといって捨てるような、
小廉小義に過ぎない、ということを述べたものです。
陳仲子については、滕文公下篇末章に詳しくあります。
彼が、兄を避け母を離れ、
君の俸禄を受けなかったのは、
すなわち本章にいう「親戚・君臣・上下の人倫を無視した」ことであって、
すでに人倫を否定した人間ですから、
いくら小義を守ったからといって、
とても問題とするに足るものがないのです。
今、斉は大国のように見えますが、
結局は、箪食豆羹、
つまりわずかの食物と変わりがありません。
孟子がここで問題としているところは、
物の大小ではなく、義の大小であることは、
以上によって理解されるでしょう。
いったい、聖人とは、人倫の極致にある人のことであり、
そして聖人の道は人倫を守ることをその根本としています。
ですから、辞するか受けるかという際にそのどちらを択ぶかという問題は、
単にその一細目にすぎないのであって、
伯夷・叔齊は周の粟を受けずして首陽山に餓死することによって
君臣の義を具現したのであり、
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