〓〓INSIDER No.427 1999/5/1〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
NATOと日米安保の“域外化”――深まる米国の“文化
的”混乱
コロラド州リトルトン市の高校で起きた2人の少年に
よる銃乱射事件が引き起こした衝撃の中で、クリントン
大統領は、米国最強のロビーである全米ライフル協会と
全面対決になるかもしれない政治的リスクを敢えて冒し
て、未成年者の銃器へのアクセスを強く規制する新法案
を発表した。
銃規制の強化そのものは、とりわけ服部君ハロウィン
殺人事件はじめ在米日本人も少なからず犠牲となってい
る我々の目から見れば、好ましいという以前に当然のこ
とである。が、その発表に際して大統領が語った次の言
葉には、新法案の1つくらいでは到底解決することのな
い米国社会のディレンマが滲み出ている。「文化を変え
るのは難しいが、個人の責任回避に文化が利用されては
ならない」
●暴力は米国文化?
これはもちろん、直接には、銃規制反対論者たちが
「銃は米国の文化であり銃そのものが悪いのではない。
学校や家庭が子供らにどんな教育を施しているかが問題
だ」と、文化を盾にとって銃規制に反対していることへ
の反論である。善し悪しは別として、銃は確かに米国文
化の一部である。全米の
個人が所有する銃は1億9000万丁を超えており、赤ん坊
を除く全員が持っている計算になるというのに、なお年
に750万丁の銃が販売されている。
なぜ米国人がそれほどに銃フェチなのかと言えば、そ
れはこの国そのものが先住民の大量虐殺の血糊の上に成
り立っていて、その邪魔者は殺せという“カウボーイ精
神”はすでに彼らの遺伝子に組み込まれているからであ
る。銃が文化だと主張することは、殺人と暴力が文化だ
と主張しているのと同じことであり、そうだとすると、
自分や子女を守るために家庭の主婦までが射撃教室に通
い、帰りにライフルを1丁買ってきて玄関横に立てかけ
ておくといった野放図な悪循環を防ぐことは出来ない。
実際、米国のテレビ・ドラマ、映画、ロック音楽、プ
ロレス、電子ゲーム、ファッションなど文化の全領域に
は暴力と殺人が蔓延しており、例えば4月6日から2週
間ほどに米国で新たに発売されたビデオ映画11本のうち
7本までは、ネオナチ、スキンヘッドなどを題材にした
暴力的な内容ものだった。95年の映画「バスケットボー
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