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佐々木俊尚の未来地図レポート 2023.3.27 Vol.748
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【今週のコンテンツ】
特集
AIの生み出すコンテンツは「物語消費」されるようになるのだろうか
〜〜〜物語には、リスペクトの交換という相互作用が必要である
未来地図キュレーション
佐々木俊尚からひとこと
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■特集
AIの生み出すコンテンツは「物語消費」されるようになるのだろうか
〜〜〜物語には、リスペクトの交換という相互作用が必要である
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ジェネレーティブAIが生成するコンテンツには、コンテキストが存在しません。文化はつねにコンテンツとコンテキストの両面があってこそ成立するようになってっきています。コンテンツが作品そのものであるのに対して、コンテキストは、その作品が持っている背景事情や文脈のことを指します。
コンテキストの重要性を考える題材として、将棋を考えてみればわかりやすいでしょう。藤井聡太さんが渡辺明さんに勝利し、六つ目のタイトルとなる棋王を獲得しました。
熱狂的に見ていたファンは多いと思いますが、この対戦は単に対戦そのものというコンテンツだけでなく、藤井さんが史上最年少でここまで上りつめてきたことや、その飾らない性格や、さらには対戦中のおやつに何を食べるのかといったたくさんのコンテキストに彩られることによって豊かなふくらみがあり、鑑賞するファンの側も楽しみが広がっているのです。
クラシック音楽のようなハイカルチャーも、近代の中流階級にあった「上流の教養への憧れ」というコンテキストが脱落していった結果、その音楽家がどのような半生を歩んできたのかといったパーソナリティのコンテキストが人気を押し上げる大きな要因になってきています。
たとえばゴーストライター事件で話題になった作曲家佐村河内守さんの「被爆二世・聴覚障がい」、ピアニストのフジコ・ヘミングさんの「無国籍者として貧困と孤独の半生」といったコンテキストがまさにそうである、というのは前回も書いた通りです。このようなケースは藤井聡太さんの将棋とくらべ、コンテキストの占める役割が大きくなっており、コンテキストとコンテンツのバランスが若干危うくなっています。
これは「コンテキスト消費」と呼べる現象でしょう。
人がなにかの商品を消費するとき、その消費のしかたは20世紀になって「機能消費」から「記号消費」と進みました。
もともとクルマを購入するということの意味は、移動の手段という機能のためでした。アメリカのT型フォードとか、日本の大衆車の先駆けであるパブリカなどの時代には、ただひたすら「クルマを買えば移動が自由になる」ということを目指して人々はクルマを購入したわけです。
しかし消費社会が成熟してきて、クルマをだれもが持つようになると、だんだんと「クルマを持っているだけ」では満足できなくなってくる。そこでBMWやメルセデスベンツのような輸入車を買い「自分はこういう高級車に乗れるハイソな人間なんだ」という記号に頼るようになります。
「いつかはクラウン」という広告コピーがありましたが、サラリーマンが部長とか役員の役職にまで上がってくると、自分のポジションの確認のために国産車の最上級であるクラウンを買う。こういう消費はクルマの機能ではなく、特定のクルマの持つ記号を消費しているから、記号消費。そしてその記号はあくまでも、「自分をハイソに見せたい」「自分を背伸びさせたい」という欲求を満たすものだったわけで、「背伸び消費」だったということです。
しかしこうした背伸び消費は、21世紀に入ると衰退します。ルイ・ヴィトンやシャネルなどの高級ブランドのバッグを持つ若い女性は少なくなり、高級輸入車の所有をステータスと感じる若者もいなくなってしまいました。
地方都市では、いまもクルマを好む人たちがたくさんいます。わたしが拠点を構えている福井でも、周囲の友人たちはクルマが好きな人が多い。しかし彼らのクルマの消費スタイルも、やはり昔とは変わってきていると感じます。
「地方のヤンキー」といえば、昔は「金文字ロゴのセルシオ」が憧れのクルマなどと言われていた時代がありました。しかしいまでは人気のクルマは、大型ミニバンのアルファードやエルグランド。しかしこれらの高級車が、ルイ・ヴィトンのような背伸び消費なのかというと、わたしは少し違う受け止め方をしています。
2000年代に「ジモティ」ということばが流行ったことがあります。「地元の人」という意味ですが、ただ地元のことを指すだけではありません。昭和のころのヤンキーが「成り上がり」の上昇志向を持っていたとすれば、21世紀の地方の若者は、地元を愛し地元の仲間と楽しく暮らしていければいい、というような新しい共同体感覚を持っている。そういう価値観を指したことばです。
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