「136号」
小西昭生のアクエリアスの時代を「明るく軽やかに生きる法」
~神の手ほどき~
2023年5月11日号
第136号:「修行は悟りに不要なのか」
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目次
【まえがき】このメルマガについて
1.日常生活と非日常生活
2.五感の感覚は明想で取り除く
3.出家と在家
4.まとめ
【あとがき】
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《今回のフォーカス》
今回のテーマは、「修行は悟りに不要なのか」です。
前回「言語を絶する創造主=神」の第1節、「悟りの段階」でお約束した「幾つもの事例は、日常の体験の中にあるので、日常生活がいかに大切か」という一節を、今回は深く掘り下げてまいります。
多くの宗教教義で規定されている修行は、悟りには不要です。
また、出家と在家という区分も、本来は必要ないのです。
ここでお伝えする悟りとは、「人間の持つ差別感を取り去ること」だからです。
その結果、天地一体・神と人の合一という悟りの境地に至るのです。
悟りの本質は、全一体感なのです。
あなたも私も居ない完全な一体感こそが、創造主=神の世界です。
その神の世界を目指すことが、悟りの階梯を進むことでもあります。
では、神に近づくには、特別な肉体修行や教義の勉強が必要なのでしょうか。それらが必要だと主張するのは、人間の作り上げた妄想です。
神は人間を創造した時、神ご自身が人間の肉体の中に宿ると、お決めになったのです。
ということは、人間一人ひとりには、神が宿っていますので、自分の裡側を探せば、神は見つけ出すことが出来ます。
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