━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
渡辺勝幸の日本一元気になるメールマガジン
第4609号 令和5年4月28日(金)発行
発行部数 11,464 部
【よき主君に遇うこと】
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【よき主君に遇うこと】
君子に教えを受けるならば、
学ぶものの徳は実徳となって、
世事にうとく実情に通じない愚物を指して徳ある人だとするようにはならないし、
才は実才となって、詐欺や奸悪の悪漢を指して才ある人だとするようにはなりません。
それはあたかも、明君・良相の登用する賢者は、
無能者の別名ではなく、
能者は、不賢者の偽称ではないがごときものであります。
わたくしは、人を教えた経験から人を使う道を理解し、
また学ぶものが師を選ばねばならず、
仕えようとするものが主を選ばなければならないことを知りました。
すなわち、もしも、びっこやいざりのものに、
飛廉の善走の術を教えたり、
めくらやつんぼに、離婁の善視の術を教えたりする師に就いたならば、
百年も一心に努力したところで、何の益も得ることはないものであり、
仕えようとする場合も、全くこれと同じであります。
すなわち、古来、いかに聖人・賢人の才や徳を持っている場合でも、
よい主君に見出されなかったならば、
その功績を挙げることはできなかったことであって、
舜・禹・伊尹・周公を初めとして、
みな明主にあうことができたから、その功を遂げたのであります。
反対に、もしよい主君に遇うことがなかったならば、
孔子や孟子のような聖人・賢人であっても、
一匹夫としてその生涯を終えるのみです。
このことを思うと、わたくしは、千古不遇の人物のために、
思わず声を挙げて泣かざるを得ないのです。
しかしながら、ひるがえって考えなおすと、
この記事は約
NaN 分で読めます(
NaN 文字 / 画像
NaN
枚)