「日本の高齢者はどうして子どもを憎むのか?」
勿論、全員ではありません。ですが、日本の高齢者、特に高齢男性による
子育て世代や子供への攻撃というのは、目に余るようです。
「妊婦マークに舌打ち」
「ベビーカーを蹴る」
「交通機関で泣いた子どもをにらみつける」
「騒音のクレームで、公園や保育園を潰す」
ホンモノの研究かは分かりませんが、子どものいない、従って孫もいない
高齢者は、特に子どもの騒音を耳障りと感じるという医学上の説があります。
ですが、そうした場合でも「自分もかつては泣き叫ぶ子どもだった」という
事実を突きつければ、黙るのかと思うと、昨今の状況では、必ずしもそうで
はないという見方もあります。
それは「自分は産んで育てて欲しかったわけではないので、責任の取りよ
うがない」という居直りです。この話は、例えば「子どもを生み育てること
は、カネとヒマのある人の娯楽」あるいは「子どもは嗜好品」だから、「周
囲への迷惑は一切許さない」という「めんどくさい」声にも当てはまります。
こうした声に関しては、「タバコや酒は嗜好品かもしれないが、あなた自
身が子どもであったことを考えると嗜好品扱いはおかしい」という反論が可
能ですし、人間には次世代の再生産ということが、個別の「揺れ」はあって
も種の生存本能として厳然とあるという指摘も可能なわけです。
昔のクレーマーはそれで黙ったようですが、最近は、「自分は生まれてこ
なくても良かった」とか「自然を破壊する人類は滅んだほうが良い」的な開
き直りの論法が飛んでくるという話もあります。
そうなると、これはやはり社会的なメンタルヘルスの問題になるのだと思
います。「自分は生まれてこなかった方が良かった」と思うのは、人のメン
タルの状態の中で最悪の部類に入ると思います。そのような強い自己の存在
否定を抱えていれば、そこからは「愛されて甘えている子供の姿」は憎いと
いう発想になります。そうなれば、それ自体が反社会性ということになりま
すが、だからといって取り締まったり、糾弾したり、差別をしても問題の解
決にはなりません。
現代の社会では、そうした種類の危険因子を抱えた人を「子どもから隔離
する」という発想法も出てきそうですが、適切でないと同時に、実行は不可
能です。となれば、やはりそのような人々を救う一種の治療の普及が必要で
す。(続く)
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