「セクシズム?自由の主張の履き違え」
先週、マイケルジャクソンの長女(パリス・ジャクソン)が「自分の裸を見せる自由を・・」と、
ジャンポール・ゴルチエによる“裸ドレス”を着用し話題になった。
女性の裸のパーツが描かれているこの服は性差別に対してわかりやすい意思表明だという。
毎度お騒がせなこの方、わき毛を生やしたり、全身タトゥーの姿を見せたりと、
ファッション界のインフルエンサーなのだが、こういういかにも「今の時代はこれよ!」とばかりに
「自由」をはき違えている申し子たちが多すぎる。
パリス・ジャクソンの「思想」は、ただの自己主張。この前のコラムにも書いたが「見ている方」はとても不快である。
食事中に、こういう彼女の自己主張を見せられた日には、たまったもんではない。
何でも「主張」すれば良いというものではない。
礼儀と節度、TPO…大人であれば相手を配慮するという{わきまえ}がなければならない。
自由の主張は結構だが、そこに「責任」という文字が見当たらないのはどうしてか?
個人の主義主張を押し通すなら、それを受ける人、見る人、子供や社会的影響という「責任」を持つべきであると私は思う。
個人の思考や美学を否定してはいけない・・・という今の傾向に、誰もが口を閉じる必要はないのだ。
「否定してはいけないムード」が、実は自由を奪っていることにはならないか?
社会に対して主張は多いに結構。だが、それを誰もが「認めなければならない」という法律などはない。
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