━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
渡辺勝幸の日本一元気になるメールマガジン
第4637号 令和5年5月26日(金)発行
発行部数 11,460 部
【日々の行動はすべて見られている、隠すことなし】
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【日々の行動はすべて見られている、隠すことなし】
しかしながら、高く美しく及びがたいように思われる
この孟子のことばも、深くこれを考えてみるならば、
その主旨は切実にして明白であるということができます。
すなわち「君子は引きて発せず、躍如たり」とありますが、
この引の一字こそ、全章の頭脳です。
引くとは、弓をいっぱいに引くこと。
弓をいっぱいに引いたように、
孟子の平生の行動は、
すべて人々の目に見られているのであって、
これは孔子が、「吾、爾に隠すことなし」云々、
わたしは、諸君に何も隠してはいない、
わたしは何をするにも、諸君といっしょにしないことはない(『論語』述而篇)と同じ精神です。
ですから丑が孟子のこのことばをよく観察して手本とし、
これを実践するならば、そのほかに残っているものは何もないのです。
「発せず」とは、この自分自身を議論や文章として発表しないということであります。
これも孔子の「天何をか言はんや」云云、
天は何もいわないが、四季は循環し、それにつれてさまざまのものが発生し成長しています。
天は何もいわないが、それを見れば天の心はわかってくる(『論語』陽貨篇)と同じ精神です。
「躍如」とは、矢を放たない、
すなわち議論や文章に発表はしないものの、
その人の姿にその意志を認めることができますから、
それが踴躍活発、生き生きと躍るばかりであることは、
議論や文章のごとき死物とは全く違ったものであることをいったものです。
「中道にして立つ」とは、その実践するところが、
過・不及があったり、過激すぎたりする行為でなくして、
この記事は約
NaN 分で読めます(
NaN 文字 / 画像
NaN
枚)