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佐々木俊尚の未来地図レポート 2023.6.19 Vol.760
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【今週のコンテンツ】
特集
昭和元禄と呼ばれた豊かな1960年代になぜ学生運動は燃えさかったのか
〜〜〜日本の学生運動の歴史から、テロ報道のありかたを考える
未来地図キュレーション
佐々木俊尚からひとこと
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■特集
昭和元禄と呼ばれた豊かな1960年代になぜ学生運動は燃えさかったのか
〜〜〜日本の学生運動の歴史から、テロ報道のありかたを考える
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なぜマスコミはテロリストを「被害者」化した物語を描いてしまうのか?問題を、前回に引き続いてとりあげます。
この背景を語るためには、戦後の歴史から解き明かさなければなりません。
1950年代後半からはじまった高度経済成長は、日本を農業国から工業国へ、そして途上国から先進国へと脱皮させる原動力となりました。この高度成長によって日本社会の構成も大きく変わり、農村から都会への「人口大移動」を引き起こして、サラリーマンと呼ばれるホワイトカラーを大量に生み出していくことになります。
学生運動を担った団塊の世代は、狭義では1947〜50年に生まれた人たちです。彼らが幼いころはまだ高度成長の端緒についたばかりで、人口の大半は依然として農村に住んでいました。つまり彼らは子供のころは、地方の田畑で鼻水を垂らして裸足で遊んでいたのが、20歳を過ぎるころにはスーツを着て通勤電車に揺られて会社に通うサラリーマンになっている。そういう途上国→先進国という激変を,多感な青春期に経験したのが団塊の世代の人たちでした。
「大学生」というステータスの激変もありました。戦前までは大学生というと「末は博士か大臣か」とまで呼ばれて、将来の出世を嘱望されているエリート層だったのです。団塊の世代は子供のころには、大学に対してそのようなイメージを持っていたことでしょう。ところが急速な高度成長で日本社会が豊かになったことに加えて、この世代の人口の多さ(年間270万人もいたのです!3年で800万人。いまの出生数が年間80万人を切っていることを考えれば、これがいかに巨大なボリュームかをイメージしていただけるのでは)。
これだけの人数を吸収するために大学は巨大になって行き、そして結果として大学生であることは特段エリートでもない扱いになっていきます。
エリートだと思って入学したら、大学はただの「サラリーマン養成所」のようなものになっていた。加えて大学の巨大化で設備や教員の数などが追いつかず、大人数で受ける講義には「最高学府」というような真理探究の場という趣きはかけらもなくなっている。こういう状況に対する不満が、当時の学生運動の背景にあったと指摘されています。
慶應義塾大学の小熊英二教授は、膨大な資料を駆使して書いたおそろしく分厚い著作『1968』(新曜社、2009年)でこう指摘しています。
「『あの時代』の叛乱は、高度成長に対する集団摩擦反応であったと同時に、こうもいえるであろう。それは、日本が発展途上国から先進国に、『近代』から『現代』に脱皮する過程において必要とした通過儀礼であり、高度資本主義社会への適応過程であったのだ、と」
わたしは同書はたいへんな名著だと思うのですが、この本は毀誉褒貶が激しく、特に学生運動の渦中にあった人たちからは総スカンを食らいました。
たとえば高校時代に全共闘運動に参加していた1953年生まれの評論家四方田犬彦氏は、「すでに諸方面から事実認識の誤認や叙述の遺漏を指摘され、満身創痍のまま沖縄に向かう戦艦大和を思わせる様相を呈することになったこの書物」と、ひどい表現でこき下ろしています(『1968年文化論』毎日新聞社)。
まあ自分たちのやってきた高尚な革命運動が、「しょせんは通過儀礼」などと言われてしまえば怒るのは当然でしょう。しかしこの「通過儀礼」が学生運動の背景にあったことは否定できません。なぜなら、そもそも60年代末というあの時代に「なぜ日本で革命を起こさなければならないのか?」という歴史的必然は存在しないからです。
1960年代末は、高度成長が頂点に達して人々が豊かさを実感していた時代でした。この少し前の1964年には「昭和元禄」という流行語もありました。江戸期の豊かな元禄期と同じぐらいに豊かで天下太平である、と後に首相となる福田赳夫蔵相が言ってのけたのです。1970年代に入ればドルショックや石油ショックで日本経済は激変にさらされますが、それもまだ未来の話。60年代末はまだ太平楽の夢を見ていられる時期でした。
高度成長が始まった1950年代には、白黒テレビと洗濯機、掃除機が家電の「三種の神器」として憧れや豊かさの象徴とされていましたが、60年代末には豊かさはさらに一歩進み、「3C」が持てはやされました。自動車、クーラー、カラーテレビです。戦後の焼け跡から出発して、わずか20年ほどで一家一台の自家用車まで持てるようになってきたのですが、当時の人々の人生への期待はいかほどであったか。
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