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佐々木俊尚の未来地図レポート 2023.6.26 Vol.761
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【今週のコンテンツ】
特集
重信房子氏率いる日本赤軍は、1970年代には「カッコ良かった」(と思われていた)
〜〜〜日本の学生運動の歴史から、テロ報道のありかたを考える
未来地図キュレーション
佐々木俊尚からひとこと
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■特集
重信房子氏率いる日本赤軍は、1970年代には「カッコ良かった」(と思われていた)
〜〜〜日本の学生運動の歴史から、テロ報道のありかたを考える
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安倍元首相事件報道で露呈したように、なぜマスコミは、テロリストを「被害者」化した物語を描いてしまうのでしょうか。
さる5月末には、日本赤軍のリーダーだった重信房子氏が懲役20年の刑期を満了し、出所しました。「闘いの中で無辜の人たちに被害を与えた。おわびします」と彼女はコメントしましたが、一部メディアが彼女の登場を大歓迎し「王の帰還」のようにあつかったことに違和感をおぼえた人も少なくなかったのではないでしょうか。
なぜこのような扱いになってしまっているのでしょうか。これは日本赤軍という軍事組織が1970年代初頭に、日本社会でどのような位置を占めていたのかから解き明かす必要があるでしょう。
重信房子氏が率いた日本赤軍はもともと、1969年に結成された共産主義者同盟赤軍派というセクトでした。赤軍派は単純にいえば「世界中で革命を起こす」「武装闘争をする」というふたつを主張していたのですが、やがて三つのグループに分かれます。
第一のグループは、1970年3月に日航機よど号をハイジャックして北朝鮮にわたった「よど号犯」たち。第二のグループは、1971年2月にパレスチナにわたってPFLP(パレスチナ解放人民戦線)と合流した重信房子氏たち。このグループが後に「日本赤軍」と名乗るようになります。
第三のグループは海外にわたらず、国内で銃砲店を襲撃して銃を奪ったり、銀行強盗をしたり、群馬の山中で軍事訓練をしたりしました。このグループは京浜安保共闘(日本共産党革命左派)という別のセクトと提携するようになったので、「連合赤軍」と名乗ります。
そしてこの連合赤軍が、歴史に悪名高いリンチ事件とあさま山荘立てこもり事件を引き起こしました。
あさま山荘事件が起きたのは、1972年2月。連合赤軍は警察の捜査を逃れるために群馬の山中などにアジトをつくり、転々と移動していましたが、最終的に追い詰められて長野・軽井沢にある「あさま山荘」に管理人の妻を人質にとって立てこもります。
「山荘」という名称や当時の映像などから、事件はおそろしく山深いところが現場になったように錯覚してしまいますが、あさま山荘は当時は河合楽器の保養所。立地も南軽井沢にあたらしく作られていた新興別荘地レイクニュータウンの一画で、決して奥深い山中ではありません。とはいえ建物は、たいへん急峻な崖のような土地に垂直にへばりつくようにして建っており、まさに山城の感。現地に立ってみると、警察が攻めあぐんだのも当然だろうなあという感想を抱きます。
さて、あさま山荘事件は9日間もつづき、テレビはNHKも民放もCMヌキで休むことなく生中継し、最終日の2月28日の視聴率は全局トータルで89.7%という前代未聞の数字を叩き出しました。日本人のほとんど全員がこの事件の成り行きを固唾を呑んで見守っていたのです。
連合赤軍兵士5人と警察隊のあいだでは激しい銃撃戦があり、最終的に警察官2人、勝手に現場に侵入してきた民間人1人の3人が亡くなっています。警察官の負傷者は26人にも上りました。報道陣もひとり負傷しています。
では、日本の民意は連合赤軍をどう見ていたのでしょうか。ニュースではもちろん亡くなった警察官を追悼し、連合赤軍兵士たちを非難しています。しかしこの事件中継に向き合った日本人の民意は、当時真っ二つに割れていたのではないかと思います。60年代末の学生運動から赤軍派の武装闘争にいたるまでの運動にシンパシーを感じていた人たちと、学生たちの跳ねっ返りな運動に眉を顰めていた人たちと。
前者の例をひとつ挙げましょう。1950年生まれのフォークシンガー友部正人さん。連合赤軍の兵士たちよりやや若いですが、ほぼ同世代です。当時21歳だった彼は、あさま山荘の最終日2月28日を歌にしています。「乾杯」という曲です。
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