2023年 第29号 【長尾和宏の痛くない死に方】
長尾和宏です。いやあ暑い。夏休みシーズンですね。
久しぶりに、マスクなしで子どもたちのはしゃぐ表情が電車や街中で見られて
ほっとしています。僕は初めてのフーテンの夏。東へ西へ、会いたい人に会う
ためのこの夏は暑さと闘いながら、フーテンの旅を続けていきます。
といっても、僕のフーテンの旅は、娯楽や観光が目的の旅ではありません。
あえて言葉にするのなら、「無念」と「救済」の旅。そう思っています。
先日の #長尾チャンネル では、宗教学者の島薗進さんと対話をしました。
↓ ↓ ↓
https://live.nicovideo.jp/watch/lv342123106
そして一昨日のスペース では、京都に赴き鵜川和久さんにお話を聞きました。
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https://twitter.com/Trilliana_z/status/1681974958598262784
島薗さんとは自殺について、そして尊厳死・安楽死議論まで話を展開させました。
鵜川さんとはコロナワクチンで亡くなられた遺族の方たち、ワクチン後遺症の人
たちにこれから何ができるのか、についてお話を伺いました。
まったく違う二つのテーマですが、どちらも僕のライフワーク。
フーテンの僕が、これから命をかけてやるべき仕事。
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島薗さん、鵜川さん。まったく違うフィールドでご活躍する二人だけれど、
この二人に共通するのは、「救済」である。
島薗さんは最近新刊を出された。こんなタイトルである。
『宗教のきほん なぜ「救い」を求めるのか』
なぜ宗教が始まったのか。それは、人間がこの苦しい現世からの「救い」を
求めたからだ。そしてその信仰の先にあるのは「死」。苦しいこの世での修行
を続けて、最後には神様が「死」という形で我が身を天国に救ってくれる。
キリスト教であれイスラム教であれ仏教であれ、信仰をするということは、
人々がそこに救済を求めるからだ。
島薗さんは、本書でこんなふうに言っている。
●救いの「信仰」は個人が自らそれを選び取ることを求めるが、そうした
信仰を受け入れる人々が構成する共同性、社会性をも方向づける。
●「救い」の信仰は、すべての人の尊厳と、どんな人をも排除しない態度を促す。
仲間/外部、強さ/弱さで差別をしない。同じ人間として遇することを求める。
●人と人とが敵/味方で争ったり、利益のために対立し、暴力にも至るという
現在の社会のあり方に対して、それとは異なる個人同士の関係を求める。
親族関係や民族を超えて、人々の新たな交わりのあり方を促す。
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