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「ファビウス・ピクトルと国民史の起源」(前半)

BHのココロ
  • 2023/08/02
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少々遅れましたが、今回は「ファビウス・ピクトルと国民史の起源」の試訳の前半をお送りします。 「ファビウス・ピクトルと国民史の起源」 第一節 はじめに  ここまでの航海は順風満帆だった。古代ギリシアの歴史叙述はあきらかに存在し、そこにはヘロドトスの伝統とトゥキュディデスの伝統の競合があった。尚古家たちと歴史家たちの数世紀にわたる相克も同様だろう。本書の第五章と第六章では、より自明なものにもどって、古代ローマのタキトゥスに由来する政治史と政治的な思考の伝統、そしてキリスト教によって導入された新しい歴史叙である教会史をとりあげたい。  しかし古代ギリシアの歴史叙述のまわりには、未踏の領域が広大にひろがっている。以下では二点にしぼって考察しよう。まずギリシア人が歴史叙述についてペルシア文化からなにを学んだのかを手短に議論する。これにはユダヤ人が関与したが、その媒介者としての役割は容易に理解されるだろう。もうひとつの考察は、ローマ人がギリシア文化と出会うまえに歴史についてなにを知っていたかという点をあつかう。 これらふたつの考察を結びつけるのは、もちろん西方のローマ世界と東方のオリエント世界を媒介するギリシア文化の位置づけだろう。ただし本章は「未知を認識する技法」ars nesciendi として、つまり現状の知識の限界を把握するものとしてとらえて欲しい。  第一の考察であるペルシア文化があたえた影響については、ギリシアの歴史叙述をめぐるつぎの二点がふくまれ、これらはさまざまな意味で矛盾する。ひとつは文書史料の活用で、歴史家の信頼性をあとづける象徴であり、もうひとつは物語の濫用で、架空のものとの不法な交わりの象徴となる。  第二の考察である古代ローマの歴史叙述におけるギリシア化以前の状況については、ローマ文化のきわめて重要な要素が関係した。当初はラテン語による素朴な年代記的な記述だったものが、驚くべきことにまずはギリシア語で、つづいてラテン語での歴史叙述へと突然に飛躍したのは、どうしてなのか。そしてそれは近代の「国民史」national history の原型をいかに創出したのか。たしかに古代ギリシア人は国民史を生みださなかったが、それは彼らが政治的に統合されていなかったからという単純な理由による。 彼らにとって、ギリシア自体よりもエジプトやバビロニアを政治的な統一体として記述する方が容易だった。ルネサンス期のヨーロッパに国民史という概念をもたらしたのはギリシア人ではなくローマ人であり、リウィウスがその第一人者と考えられている。だから第二の考察は、きわめて重要かつ危険な国民史の誕生を準備したものを、古代ローマの伝統のなかに探しだす試みとなる。 第二節 ルネサンス期の国民史とリウィウスの影響  ルネサンス期ヨーロッパにおける国民史の誕生には、伝統的な説明がある。共和政ローマ末期の歴史家リウィウスによる『ローマ建国史』を意識的に模倣しながら、人文主義者のブルーニがフィレンツェ史を、サベリコ(Marco Antonio Sabellico, 1436-1506)とベンボ(Pietro Bembo, 1470-1547)がヴェネツィア史を、メルラ(Giorgio Merula, c. 1430-1494)がミラノのヴィスコンティ家史を書いた。 また教皇ピウス二世となるピッコローミニ(Enea Silvio Piccolomini, 1405-1464)がボヘミア史を、ボンフィニ(Antonio Bonfini, 1434-1503)がハンガリー史を、シクロ(Lucio Marineo Siculo, 1444-1533)がスペイン史を、ヴィルジリ(Polidoro Virgili, c. 1470-1555)がイングランド史を、ダ・ヴェローナ(Paolo Emilio da Verona, c. 1455-1529)がフランス史を著した。さらにポリツィアーノはポルトガル史の執筆を依頼されることになる。  イタリアの人文主義者たちは古典を手本として、こうした国民史を執筆して真面目に生計をたてた。彼らはこの新銘柄を王侯たちに売り、結果として地元の歴史家たちも競争に参入した。一五〇〇年ごろにドイツのヴィンプフェリンク(Jakob Wimpfeling, 1450-1528)は、「近年ではローマ人やヴェネツィア人、イングランド人によるパンノニア人やボヘミア人、フランク人の歴史が読まれているようだ」Videns Romanas, Venetas, Anglas, Pannonumque et Bohemorum ac Francigenum historias in dies lectum iri と指摘している 。 そして彼は「ゲルマニアの永遠の栄光」gloria Germanorum sempiterna のために、『ゲルマニアの諸物の要諦』Epithoma rerum Germanicarum の執筆を友人にすすめ、ついでみずから筆をとった 。  イングランドの場合とは異なり、スコットランドはリウィウス流の国民史を著すのにイタリア人をやとう必要はなかった。スコットランドのボイス(Hector Boece, 1465-1536)はヴィルジリに遅れて執筆を開始したが、後者の『イングランド史』Anglica historia が公刊される七年前の一五二七年に『スコットランド史』Scotorum historiae を完成させた。

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