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「ファビウス・ピクトルと国民史の起源」(後半)

BHのココロ
  • 2023/09/02
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今回は、前回にひきつづき「ファビウス・ピクトルと国民史の起源」の試訳の後半をお送りします。 「ファビウス・ピクトルと国民史の起源」(後半) 第七節 ローマの古い歴史伝統――宴歌と神祇官の年代記  ファビウス以前のローマには歴史をつづる方法が二種類あったと知られているが、それらを考察しよう。ひとつは宴歌であり、もうひとつは神祇官の年代記に代表される。紀元前二世紀の監察官カトーは、偉人たちに敬意をあらわす宴歌が何世代もまえに消滅してしまったと証言している 。偉大なウァロも宴歌に言及したが、どうみてもカトーが彼の情報源ではない 。彼はカトーの記述にはない詳細を知っており、べつの証拠があったとみるべきだろう。さらに哲学者キケロはカトーの『起源論』Origines で宴歌についての記述を読み、その消滅を嘆いた 。  ローマの年代記作者たちに有用な情報が宴歌のなかに存在したと考えたのは、ネーデルラントの古典学者ペリゾニウス(Jacobus Perizonius, 1651-1715)が最初だろう 。一九世紀の歴史家ニーブールは一七世紀に先行者がいたことを知らずに、宴歌をもとに原始ローマ史を夢想した。彼によれば、ローマ人が自身の起源について語った伝説は民衆歌の産物であり、ファビウスからはじまる年代記作者たちも、そこに物語の素材を見出したという。 この仮説の帰結が歴史家マコーレー(Thomas Babington Macaulay, 1800-1859) の『古代ローマの歌』Lays of Ancient Rome となる。この仮説はすぐにモムゼンに批判されて信用を失い、宴歌の存在そのものを疑う研究者もあらわれた。しかし二〇世紀初頭に古典学者デ・サンクティス(Gaetano De Sanctis, 1870-1957)がこの仮説を復活させ、現代イタリアの古代ローマについての文学・歴史研究の特徴となった。 チャチェーリ(Emanuele Ciaceri, 1869-1944)やパレーティ(Luigi Pareti, 1885-1962)、ロスターニ(Augusto Rostagni, 1892-1961)による著作がその流れにある。そしてバウラ(Cecil Maurice Bowra, 1898-1971)の『英雄詩』Heroic Poetry のおかげで、宴歌の仮説はマコーレーの国にもどってきたといえる。  ローマ人が宴歌をもったのを疑う理由はないが、私はそれらが歴史の伝統に大きな影響をおよぼしたとは思わない。古代ローマにおける宴歌の存在を疑うおもな反論は、宴歌が消滅したという監察官カトーの言葉に依拠している。彼がどのようにして宴歌の存在を知ったのかといった問いは、誤審につながる危険性があるだろう。彼がどのように知ったのかをどうやって見出せるのか。しかし彼の情報源として可能なものは示唆できる。 たとえば「十人官」(デケムウィリ)の立法には、咎められるべき「悪しき詩歌」mala carmina に対処する法律がふくまれている。現代の研究者たちは詩歌の性質について論争しているが、それは古代人にとっても疑惑のもとだった。しかしどの詩歌を咎めるべきかを決定するには、反対に容認される詩歌を知らなければならない。古代ローマの法学者たちは多様な詩歌を議論し、そこから宴歌の存在が伝わったのだろう。 法学者パエトゥス(Paetus Catus, fl. c. 200-194 BC)はローマ最初の成文法である「十二表法」についての最初の傑出した注釈者となったが、カトーの情報源はおそらく彼だろう。中世の類例は、議論をさらに一歩先に進めてくれる。英雄を称える宴歌はたやすく敵を貶める歌にもなったので、中世アイスランドの法律は諷刺詩の作成を妨げるために個人についての詩歌を禁止した。古代ローマにおける宴歌が「悪しき詩歌」を禁止する法律のせいで衰退したとしても、それは不思議ではない。  宴歌の存在や衰退の原因についての議論はこれで十分だろう。カトーはファビウスから一世代しか先行しておらず、彼から何世代も以前に失われたものはファビウスにとっても同様となる。他家を称える詩歌を容認していたとしても、彼が宴歌を利用しなかった理由と証拠がある。宴歌の仮説は、年代記作者たちが参入する以前に無名の詩人たちがローマの伝説を正典化し、年代記作者たちがそれを受容したという時系列を前提とするが、ファビウス自身も関与する一例は年代記作者たちの記述が伝説の正典化に先行したと証明するだろう。  紀元前一世紀には、将軍コリオラヌスにまつわる伝説が流布した。『ローマ古代誌』のディオニュシオスは伝説の内容をながながと伝え、初代ローマ王ロムルスやその弟レムス、将軍コリオラヌスが賛歌で称えられたという 。讃歌が太古のものか、宴歌なのかはわからない。たしかに彼のテクストは当時における古代宴歌の再発見を示すものではないが、讃歌の内容が伝承と矛盾しているわけではない。矛盾があればどこかで言及されるだろうし、実際にリウィウスはファビウスが将軍について異説を語ったと証言している 。 伝承は将軍がウォルスキ族の反逆を率いるのを拒絶して殺されたとするが、ファビウスは将軍が亡命のうちに老いて亡くなったとした。ファビウスによれば、将軍は流亡が老骨にはつらいものだと述べたという。異説が存在することから、伝承が正典化されていなかったのは明白となる。 将軍の讃歌が存在したなら、ファビウス以降にできたものか、すでに存在していても彼に影響しなかったのだろう。彼の時代には原始ローマの伝説は発展途上にあり、紀元前一世紀になってから正典化されたと考えられる。原始ローマの伝承について宴歌の仮説が説明してくれることは僅少であり、ファビウスが宴歌を利用したと信じるにたる根拠はない。  つぎに神祇官の年代記に眼を向けよう。それらはファビウスの時代にも確実に存在し、内容がどうであれ、年代順に内容が配置されて各項目にその年の執政官の名前がつけられた年代記の形式をとっていた。ファビウス自身も年代記の形式、そして執政官の名前で年代をあらわす方法を採用したことから、彼は神祇官の年代記を手本としたと思われる。 たしかにローマの創建などの基本的な情報をオリュンピア紀に換算してギリシア語圏の読者にも配慮したが、全体として彼の年代記はギリシアではなくローマの形式を採用している。しかし真に議論すべきなのは、執政官名のほかに神祇官の年代記が貢献した点だろう。  神祇官たちは漆喰を塗った白板に重要事項を記録したが、それは毎年交換され、暦表の形式をとった。誰もが自由にそれらを閲覧でき、各年末に重要事項が転写されて巻物や冊子にまとめられ、自動的に年代記の構成要素となった。おそらく暦表の形式を保持したままだったろう。これらの年代記は紀元前二世紀末に整理され、全八〇巻として公刊された。 アウルス・ゲッリウスによれば、監察官カトーは神祇官の年代記が飢饉や蝕、凶兆などを記録しているだけで、歴史家に有益な情報をふくまないと考えたという 。カトーは難物で奇矯であるのを好んだが、彼の批判は正確であり、その証言を聞き流してはならない。軍事や政治の情報をあたえないという彼の言葉は、神祇官の年代記が軍事や政治についても記録するとしたキケロやセルウィウスの証言と一致しない。哲学者キケロは「大神祇官がその年々の出来事をすべて文字に託した」と述べたが、それは文脈から軍事や政治を意味している 。 古注家セルウィウスは、もっと明確に「陸海の政治や軍事についての動きが日ごとに」domi militiaeque terra marique gesta per singulos dies 記述されたとする 。

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