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伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』
第527号2023.9.5配信分
●高度にロジスティックスが発達した現代目線で物事を見るな!!
素朴な疑問がある。何故日本車は小型車中心で進歩・普及・発展
のプロセスを踏んだのだろう?
元々クルマは馬車の派生型として誕生した経緯がある。”馬なし
馬車”という言葉があるように、馬車がその母体としての態を成し
ている。クルマの語源たる『車』は車輪を指すが、その起源は古く、
紀元前のギリシャ/ローマ時代に遡る。
馬を動力源とする馬車は、諸外国においては古くから重用されて
いる。しかし、古来高い文明/文化を有した歴史ある国家の中で、
唯一日本においては高速移動の概念はまったく根付かなかった。
日本列島でも古くから馬の生息は知られている。当然移動の足に
利用が考えられても不思議はない。車(輪)についてもそうで、平
安時代の牛車に見られるように、技術的に未開/未熟だったわけで
もない。ただ高速移動の概念が、実用的にも政治的にも生まれ育つ
社会的な土壌を欠いた、ということだろう。
江戸の徳川幕府約260年間は、その初期に敷かれた『鎖国令』の
下、幕府直轄領(天領)はともかく、諸大名に統治が任された大小
諸藩においては領民が領地から出ることは容易でなかった。米を経
済の中心とした農本主義の時代は、今とは何から何まで異なる基本
的に別世界だったと考えられる。
たとえば、物流はどうなっていただろう?現代人は、ともすると
高度にロジスティックスが発達した現代目線で物事を見がちだが、
社会が構造的に現在とはまるで違った。
物流面で陸路が活用された形跡はほぼ皆無。使われていたら当然
車に目が向くはずだ。徒歩に限られた当時のモビリティ効率を考え
れば、当然そうなるに違いない。徳川幕府が諸大名に課した”参勤
交代”の他に、道路(街道)が積極的に使われることがあっただろ
うか。江戸中心の『五街道』は有名だが、幕府直轄の『天領』以外
の諸大名が治める領地(藩)を越えて移動する用はあるか?現代の
感覚で人々が道路を往来していたとは考えにくい。
藩に帰属する領民が気楽に領地を離れるなど許されるはずもない。
そもそも農耕で領地に縛りつけられ”一所懸命”で生きる人々が、
現代のレジャー感覚を持ち得たはずもなく、旅行という概念自体の
存在が危ぶまれる。
●明治維新当時日本の総人口は現在の4分の1
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