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渡辺勝幸の日本一元気になるメールマガジン
第4819号 令和5年11月24日(金)
発行部数 9,853 部
【我が事とし、世の非難を恐れるな】
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【我が事とし、世の非難を恐れるな】
いったい、大勢の人々を救うための、
草鞋がけの苦労は、
親鸞さえも厭うことなく、
外道を折伏するための身の危険は、
日蓮さえも恐れませんでした。
彼らはいずれも異端邪説を唱える仏徒で、
孔孟の教えを奉ずる人々は問題にもしないものですが、
それでもあのような態度でした。
まして、孔孟の道に志し、伊尹の任を担おうと願うものは、
こせこせとして世の非難や投獄を恐れることは、ないのです。
昔、禹は天下に溺れているものがあれば、
自分がこれを溺らせたように思い、
稷は天下に飢えているものがあれば、
自分がこれを飢えさせたように思ったのです。
思うに堯帝の時代には、天下まだ太平でなく、
洪水が横流して天下にあふれ、民衆は飢えに苦しんでいました。
ですから禹でも、天下の人々が洪水に溺れているのを救おうとして、
自分の身がそのために溺れるかもしれないと思っていたことでしょうし、
稷も、天下の人々の飢えているのを救おうとして、
自分の身がそのために飢えに陥るかもしれないと思っていたことでしょう。
しかるに、禹・稷の両聖人が、
自分の溺れることや飢えることを心配せずに、
天下の人々の溺れることや飢えることを心配したのは、
いずれも聖人の仁の表れであって、
伊尹と、先後の違いこそあれ、その精神を一つにするものであります。
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