「母子草(ははこぐさ)」
テケテンテンテン〜テケテンテンテン〜テケテンテンテン〜♪
え〜〜〜、本日は『きっこのメルマガ亭』へお運びいただきまして、まことにありがとう存じます。昨年の夏に『天気屋』を掛けさせていただいてから一年半、長いこと高座をお休みしておりましたが、ようやく新型コロナも落ち着いてまいりましたので、あたくし二ツ目の黒猫亭きっこ、この年の瀬に戻ってまいりました。(よっ!待ってました!)
この一年半、あたくしは本職の美容師の仕事に励んでおりましたが、日本には美容院で働く美容師と床屋で働く理容師がおります。皆さんは、この美容師と理容師の違いをご存知でしょうか?どちらも免許が必要な国家資格ですが、理容師はお客様の髭や顔の産毛を剃るための剃刀(かみそり)が使える、美容師は剃刀が使えない、という違いがあるのです。実はこれ、江戸時代の名残りなんですね。
江戸時代、基本的には男性の髪は男性の髪結いが、女性の髪は女性の髪結いが担当していましたが、男性は「ちょんまげ」でしたので、剃刀で月代(さかやき)を剃らなくてはなりません。そのため、男性の髪結いは、「髪結い床(かみゆいどこ)」と呼ばれる店を持つことが幕府から許されており、ここから「床屋」という呼び名が生まれたのです。
一方、女性の髪結いは店を持つことなど許されなかったので、梳き櫛や筋目櫛、鬢付油 (びんづけあぶら)などの道具を風呂敷に包んで顧客を訪ね、様々な髪型が描かれた一覧を見せ、顧客の要望に応えて髪を結っていました。こうした髪結いは「廻り髪結い」と呼ばれており、江戸で一番の得意先は浅草寺(せんそうじ)の北にあった吉原遊郭でした。
吉原には見習いの禿(かむろ)から頂点の花魁(おいらん)に至るまで、総勢三千人もの遊女がおりましたので、毎日、大勢の「廻り髪結い」が朝から吉原へと通い、自分の顧客である遊女たちの髪を結っておりました。
そんな「廻り髪結い」の中の一人が、二十代半ばの「おきみ」でした。おきみは浅草寺に近い花川戸の「きつね長屋」で、母と二人で暮らしておりました。九尺二間の裏長屋は、へっつい(かまど)と水がめの置かれた土間を除くと四畳半ほどでしたが、母との二人暮らしには十分で、隅田川まで五分ほどのこの裏長屋を、おきみは気に入っておりました。
おきみの父は真面目で腕の良い大工でしたが、おきみが小さかった頃、仕事中に二階の屋根から転落し、打ち所が悪く亡くなってしまいました。以来、母のお八重が昼も夜も働き続け、女手ひとつでおきみを育て上げたのですが、おきみが一人前の髪結いになると同時に、お八重は長年の無理がたたって床(とこ)に伏せてしまったのです。
「おっ母さん、ただいま~」
まだ夏の暑さも残る長月(九月)の半ば、この日も朝早くから吉原遊廓へ髪結いの仕事に出ていたおきみは、いつもより少し早く、日暮れまで一刻(二時間)ほどある昼七つ(午後四時)、きつね長屋に帰って来ました。
「おっ母さん、具合はどう?」
「ああ、おきみ、ありがとうね。今日はいくぶん気分がいいよ」
お八重は、せんべい布団からゆっくり身を起こしながら、笑顔で娘の顔を見上げました。
「おっ母さん、今日は棒手振り(ぼてふり)の辰っちゃんが、売れ残ったからと立派な秋刀魚を二尾くれたの。さっそく七輪で焼くから、おっ母さん、精をつけて早く良くなってね」
「旬の時期の秋刀魚が売れ残るはずないのに‥‥、辰次さん、いつもすまないねえ‥‥」
お八重は心の中で、おきみの幼馴染の辰次に手を合わせました。
「おっ母さん、ここんとこ、ずいぶんと顔色が良くなって来たね」
「今日は隣りのお千代さんが付き添ってくれたので、隅田川まで散歩して来たのよ」
「梅念(ばいねん)先生は『もうしばらく時間が掛かりそうだ』と言ってたけど、このぶんなら思ったより早く元気になれそうね」
「あたしもそう思うよ」
「また、おっ母さんと一緒に山の温泉に行けるといいなあ」
「そうだね。しっかり食べて、しっかり養生して、早く良くなるからね」
しかし、神無月(十月)を過ぎて霜月(十一月)に入り、朝夕の冷え込みが身に染みるようになって来ると、お八重の容体は少しずつ悪くなり始めました。そのうち食欲もなくなり、おきみが炊いたお粥にもほとんど箸をつけられなくなってしまったのです。おきみはすぐに、表長屋に住まう町医者の梅念先生を呼びに走りました。すると、梅念先生の師、松念(しょうねん)先生が、ちょうど長崎から戻って来たところだったのです。
松念先生は、出島のオランダ商館に蘭方医学を学びに行っていたのです。おきみの話を聞き、梅念先生とともに松念先生も駆けつけてくれました。松念先生は、長崎から持ち帰った「ステソスコープ(聴診器)」というオランダの医療器具を使い、お八重の身体をじっくり診察すると、難しそうな顔で切り出しました。
「う~ん、これは心の臓(しんのぞう)が相当弱ってますな。言いにくいことですが、このままだと長くはもたないかもしれません」
「先生!おっ母さんは助からないのですか?」
「いや、『このままだと』というのは『このまま何もしなければ』という意味です」
「じゃあ、おっ母さんは助かるんですか?」
「まあ、方法はないことはないのですが‥‥」
「先生!」
「実は、この心の臓の病には、毎日一包ずつ飲み続けると五十日でぴたりと治る特効薬があるのです。ですが、オランダの薬なので一包が一両とたいへん高価なのです」
「一包一両ということは、五十日分で五十両!」
「はい、そうなのです」
「‥‥‥」
おきみは、吉原では人気の髪結いで、多くの顧客を持っていました。中でも、見習いである留袖新造(とめそでしんぞう)の時分からおきみを贔屓(ひいき)にしていて、おきみの作る斬新で魅力的な髪型が評判となって花魁の頂点まで上り詰めた藤山太夫(ふじやまだゆう)は、三つ年上のおきみのことをとても信頼していただけでなく、実の姉のように慕っていました。
一般的な花魁と髪結いの関係ではなく、太夫はおきみのことを「姉(ねえ)さん」と呼び、おきみも太夫のことを「お咲ちゃん」と本名で呼び合うほどの仲でした。そのため、毎年暮れになると、おきみのもとには藤山太夫からの高価な付け届けが送られて来ました。
しかし、いくら吉原で人気の髪結いとは言え、所詮は店(たな)も持てない廻り髪結いです。一人百文から二百文(二千円から四千円)ほどの代金で髪結いをしているおきみにとって、五十両(五百万円)は、とても手の届かない大金です。
「おっ母さんを助けるには五十両が必要だ。でもそんな大金、廻り髪結いのあたしには作れやしないし、借りるあてさえない‥‥。だけど、一日も早く五十両を用意しないと、おっ母さんは、おっ母さんは‥‥」
五十両を作るために、この日からおきみは必死に動き回りました。しかし、おきみの知り合いや友人も皆、おきみと同じような暮らしぶりで、足が棒になるまで歩き回っても、借りられたのは一両にも満たない金額でした。おきみは覚悟を決め、やくざ者が取り仕切っている十一(といち)の高利貸しにも行ってみましたが、「お前じゃ身体を担保にしても十両が上限だ」と言われてしまいました。
それでもおきみは「自分で四十両を作れば、残り十両はここで借りられる」と思い、少しだけ気持ちが軽くなったのです。日が暮れかけた中、おきみは「これが落語の『芝浜』だったら、都合よく五十両が入った紙入れを拾うとこなのに‥‥」などと思いながら、重い足を引きずって帰途につきました。
「おっ母さん、ただいま‥‥」
おきみは灯し油に火をつけ、お八重の様子を見ました。
「おっ母さん、遅くなってごめんね。すぐに夕餉の支度をするからね」
「ああ、おきみかい?あたしは大丈夫だから、心配しないでね」
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