「小松成美の伝え方の教科書 ノンフィクション作家に学ぶコミュニケーション術」
vol.66「作家・伊集院静をつくりあげた父の存在と若年の壮絶な経験とは?」
【今週の目次】
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1. 成美のつぶやき
└伊集院さんとの忘れられない強烈な思い出
2. 作家・伊集院静をつくりあげた父の存在と若年の壮絶な経験とは?
└小説家・伊集院静をつくった瀬戸内の海
└両親のある信念と、コスモポリタンという生き方
└野球選手を目指すも2度の挫折。そして、父親との葛藤。
└突然で早すぎる弟の死と、最愛の人の死
3. 小松成美の心に残る、あのフレーズ
4. お知らせ
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1. 成美のつぶやき
光陰矢の如し。
月日が流れるのは本当に早いものです。
2023年11月24日に73歳で亡くなられた伊集院静さん。伊集さんの訃報を聞き、11月28日の第62回メルマガで「なかなかお別れの決意ができない」とお伝えしてから、早3ヶ月が経とうとしています。
伊集院さんは、1950年に山口県に生まれ、都内の大学を卒業後、広告代理店の勤務などを経て、1981年に作家デビューしました。
地元・山口県などを舞台にした自伝的長編小説『海峡』3部作、また、瀬戸内海の島の小学校を舞台に教師と子どもたちの交流を描いた『機関車先生』などの小説を数多く発表し、1992年に短編集『受け月』で直木賞を受賞しました。
その後も自身の人生観や仕事観をつづるベストセラーのエッセイ集、『大人の流儀』シリーズなど精力的に活動を続けてきました。
また、「伊達歩」名義で作詞家としても活躍し、近藤真彦さんの『ギンギラギンにさりげなく』や『愚か者』などのヒット曲を手がけました。
伊集院さんは、2020年にくも膜下出血で倒れましたが、その後、奇跡的に復帰し週刊誌での連載や新作の発表を続けていました。しかし、10月初旬、肝内胆管がんの診断を受け、当面の間、治療のため執筆活動を休止することを発表していました。
悲しい知らせが届いたのは、それからわずか1ヶ月のことでした。
伊集院さんはお亡くなりになる直前まで原稿を書いていたそうです。私もそうですが、多くの読者も一緒に仕事していた編集者も、きっとまだ、伊集院さんの死を受けとめられないでいることでしょう。
お別れの会は未定です。ずっとこのまま「お別れの会などなければいいのに」とも思います。
伊集院さんとの忘れられない強烈な思い出
私は過去に取材で5度ほど、伊集院さんとお会いしお話を伺ったことがあります。取材の後には、一緒に食事をしたり銀座のバーにつれていってくれたりと、伊集院さんと過ごした時間は今でも鮮明に蘇ります。
当時、伊集院さんは川端康成や三島由紀夫、池波正太郎など多くの著名な作家や文化人が利用したことで知られる東京・千代田区の老舗ホテル「山の上ホテル」を常宿にしていました。ご自宅は仙台市にありましたが、東京に来た際には必ず、執筆する場所としてそこを拠点にしていたのです。
伊集院さんといえば、思い出して笑ってしまうエピソードがあります。
夏の台風上陸を間も無く迎えるという日のことです。伊集院さんを取材した私は、伊集院さんのお誘いでご飯を食べに行きました。食後は伊集院さんの行きつけの銀座のバーでお酒を飲んでいたのですが、深夜が近づき、気がつけば外は暴風雨でした。
歩くことができないほどの雨と風です。
けれど、私は胸を撫で下ろしていました。伊集院さんのハイヤーは、編集者が事前に手配していたからです。伊集院さんをハイヤーにお乗せして「山の上ホテル」へ送り出せば、一安心。私と編集者はそれからゆっくりタクシーを手配すればいい、と考えていました。
そろそろお開きの時間となり、銀座のバーのビル1階におりました。編集者が山の上ホテルに向かうようドライバーに告げて、私たち二人が伊集院さんを車に乗せ見送ろうとしていたその時、伊集院さんが大きな声で叫び出しました。
「ふざけるな〜!女・子どもを置いて俺が帰れるわけないだろう!!!」
私に向き直った伊集院さんが、こう言うのです。
「お前がこの車に乗って帰れ。俺は自分でタクシーを探すから」
私は慌ててこう返答しました。
「いえいえ、大丈夫です。伊集院さんが帰られた後、タクシーを呼びます。安心してホテルへお帰りください」
伊集院さんの声が暴風雨に負けないくらい大きくなって私の耳に届きました。
「大丈夫?!何が大丈夫なんだよ?俺が大丈夫じゃないと言っているんだ。いいからこの車に乗れ!俺はタクシーを自分で拾う」
「あっ」と言う間の出来事でした。
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