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伏木悦郎のメルマガ『クルマの心』
第534号 2024.1.2配信分(号外)
●わずか7万台余に留まった3世代都合13年間(GT-Rの現実)
GT-R話を続ける。R32スカイラインが国内専用モデルだった
ことは既に述べた。旧プリンス自工で誕生して以来、1966年の日産
との合併、1999年仏ルノー社傘下入り(対外形式的にはアライアン
ス=提携関係構築とされたが、つい最近になって株式の対等保有と
なるまでは最大43.4%の資本を所有する最大株主となった)から、
現行モデルをインフィニティブランドとして輸出するまでの間、一
貫してドメスティックモデルに留め置かれた。
GT-Rの名が冠せられたR32以来、3世代に渡って継続生産さ
れたスカイラインGT-R(R33、R34)だが、オリジナルのR32
が国内車両規則グループA規定に合致するように精査されたのに対
し、続く2代は成り行きに翻弄された。基本となるパワーユニット
は直列6気筒DOHCツインターボのRB26DETTであり、電子制御式
のアテーサE-TS4WDとスーパーHICASによるハイテク/ハイパフ
ォーマンスシステムはいずれもそのまま踏襲された。
当然だろう。3世代都合13年間に渡った販売期間中の総出荷台数
はわずか7万台余に留まった。投資に対する効果はミニマムであり、
到底減価償却されるはずもない。収益性を度外視したテクノロマン
の塊は、回収されることもなく負債を溜め込んだ。バブル期のイケ
イケ最中ならまだしも、する必要のない金融引き締めの結果として
冷え込んだ景気低迷の経済環境下において、収益性を度外視したと
しか思えない放漫経営を放置する結果を生んだ。
すでにパブル崩壊として語られるようになって久しい1990年代を
覚えている向きも少なくなった印象だが、破綻寸前まで行った日産
の当時を良く知る者としては”喉元過ぎれば熱さを忘れる”を地で
行く日本人の健忘症にはきちんと釘を刺しておきたい。
GT-Rといえば、伊藤修令開発主管の名が浮かぶが、その後を
受けてR33、34開発責任者の任に当った渡邉衡三主管(R32時は実
験主担)との”バトル”は忘れられない。R32GT-Rがグループ
A車両規定で争われた国内ツーリングカー選手権を念頭に開発され
たことは既に書いた。その後同選手権は2リットル級4ドアセダン
で争われることになり、GT-Rの活躍の場は限定的となって行く
のだが、R33GT-Rのモデルチェンジは容易に想像が出来た。
●狭いプレハブ小屋で渡邉主管を直撃インタビュー
時代は昭和末期。5ナンバーの小型車枠の呪縛が解かれたのは、
プラザ合意によるドル/円為替レートの結果だ。1990年の税制改革
は、円高基調の定着の結果対外輸出において量販モデルのアレンジ
だけでは収益性に問題が生じた。利幅の改善要求もあって、次第に
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