林田直樹の「よく聴く、よく観る、よく読む」2024年1月31日 Vol.432
【音楽のことば】
「成功した雑誌の編集者たちは、いったいなにに成功したのか。おそらくかれらは、観客である読者たちの眼のまえで、われわれはあなたたちよりもはるかに充実した生活をいとなんでいるのだという集団の演技を、あざやかに、真にせまってやってのけたことによって成功したのである」
(津野海太郎)
※出典:「編集の提案」(津野海太郎著、宮田文久編 黒鳥社)57ページ
晶文社の名編集者であり、劇団黒テントの演出家でもあった津野海太郎(1938年生まれ)がこれまでに書いたエッセイをまとめた本書は、雑誌の全盛期を生きてきた人ならではの刺激的な言葉に満ちている。
旧来型のメディアが力を失っていく中で、ここにある言葉は、そうだ、力強い雑誌とはこういうものだったのだという本質を思い出させてくれる。
編集とは単なる技術のことではなく、生き方の問題である。たとえば上記の文章の中の「編集者」を「アーティスト」「プロデューサー」に置き換えることも可能だろう。
【音楽随想】
●ゆるしについて
年末に久しぶりに東劇に行き、METライブビューイングのオペラ「デッドマン・ウォーキング」(ジェイク・ヘギー作曲、ヤニック・ネゼ=セガン指揮、イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出)を観た。新シーズンのオープニング演目でMET初演だという。
冒頭は原作映画の殺人事件のシーンから始まる。高校生のカップルを襲った男たちが、娘をレイプし、最後には二人とも殺してしまう場面。そこにオーケストラの演奏が加わる。いったい自分はいまオペラを観ているのか映画を見ているのかわからなくなった。それほど両者の境界線は曖昧になってきている。
物語は、ルイジアナ州のとある町が舞台。
強姦と殺人の罪で死刑を宣告されたジョセフ(ライアン・マキニー)と、修道女ヘレン(ジョイス・ディドナート)との心の交流を描きながら、「人を殺した男を許すことはできるのか?人を人が裁いて殺すことはできるのか?それをできるのは神だけなのではないか?」と問いかける内容である。
罪を否認し、真相を頑なに話さないジョセフ。母親(スーザン・グラハム)は「あの子は本当は心の優しい子なの。だってこんな素敵な日本製の櫛を私の誕生日にプレゼントしてくれたんだもの。殺したりするはずがない」と擁護し続ける。
その一方で、娘や息子を殺された親たちは、突然の悲劇が襲ったあの日のことを繰り返し回想し、殺人者の閉ざされた心を開こうとするシスターに向かって「加害者に寄り添うのではなく、被害者に寄り添ったらどうなんだ。子どもを産んだことのないあなたに私たちの苦しい気持ちがわかるか」と迫る。
そのどちらもが、子供を思い、子供のために苦しんでいる親たちの姿である。そういった場面での音楽には、胸が締め付けられるような切実な力があった。
このオペラで考えさせられたのは、「人をゆるす」とはどういうことかということだった。
シスターふたりの間に交わされた、こんな感じの言葉が印象的だった。
「罪に苦しんでいる人を、もしゆるすことができるとすれば、それは言葉によってではなく、ちょっとした“しぐさ”によるものではないかしら?
たとえばコートのボタンを上まで留めてあげたり、髪を優しく直してあげたり。言葉ではなく、黙ってそうしてあげることが、人をゆるすことなのでは」
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