いつもお読みいただきありがとうございます。
遅くなりましたが、第77回目の淺野幸彦メールマガジン「リベラルアーツ事始め」をお送りします。
前回は、『「いき」の構造』(*1)において九鬼周造(*2)が「いき」の三つの本質的な性質や特徴として挙げた「媚態」、「意気(意気地)」、「諦め」の内のまずは「媚態」(*3)について考察しました。
今回は、残りの二つ「意気」、「諦め」について考えていくにあたり、まず政治学、日本思想史の泰斗(*4)、丸山眞男(*5)さんの著作『日本の思想』(岩波新書、1961)(*6)で『「いき」の構造』への言及について見ていきましょう。
ちなみに『日本の思想』は、大学教員達から“学生必読の書”と評され累計100万部以上の大ベストセラーになっていて、この中に収められている『「である」ことと「する」こと』は高校の現代文の教科書にも採用されています。
この考察もいずれしたいと思います。
(*1)『「いき」の構造』:『「いき」の構造』:
http://tinyurl.com/jxbc36tu
http://tinyurl.com/33cat344
(*2)九鬼周造:
http://tinyurl.com/3zbckaxh
(*3)「媚態」
http://tinyurl.com/239r7bs7
(*4)泰斗:
http://tinyurl.com/yc275skb
(*5)丸山眞男:
http://tinyurl.com/mwuhdurt
(*6)『日本の思想』:
http://tinyurl.com/2bf6psrz
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◆丸山眞男『日本の思想』
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丸山眞男さんは『日本の思想』で、「知の営み」「精神史」や「知性史」とも訳され特定の分野にとらわれず仏教史、風俗史、哲学史などなど特定の領域の通史はあっても日本思想史の包括的な研究、欧米におけるいわゆるインテレクチュアル・ヒストリー(intellectual history) (*7)が欠如していると指摘し、思想の継受などにおける問題を取り上げつつ論じています。
(*7)インテレクチュアル・ヒストリー:
http://tinyurl.com/3mke9tz5
「時代の知性的構造や世界観の発展あるいは史的関連を辿るような研究は甚だまずしく、少なくも伝統化してはいない(『日本の思想』2p)」
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◆丸山眞男の『「いき」の構造』への言及
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日本の思想状況を批判的に考察していますが、その上で、『「いき」の構造』について以下のような一定の評価をしています。
・・・以下『日本の思想』4pより引用・・・
~前略~各々の時代の文化や生活様式にとけこんだいろいろな観念、無常観とか義理とか出世とかをまるごとの社会形態ではなくて一個の思想として抽出してその内部構造を立体的に解明すること自体なかなか難しいが(九鬼周造の『「いき」の構造』などはその最も成功した例であろう)、
たとえそれができても、さてそれが同時代の他の諸観念とどのような構造連関をもち、それが次の時代にどう変容していくのかという問題になると、ますますはっきりしなくなる。
・・・引用ここまで・・・
確かに丸山眞男さんの批判的指摘は正鵠を射ていると思いますが、その後『日本思想史 (岩波新書2020)』(*8)や『「日本人とは何か」がわかる 日本思想史マトリックス(2023)』(*9)などの日本思想史の包括的な研究の成果をわかりやすく紹介している著作も出版されています。
(*8)『日本思想史』:
http://tinyurl.com/bdenc4e6
(*9)『「日本人とは何か」がわかる 日本思想史マトリックス』:
http://tinyurl.com/3raynmhj
丸山さんの指摘を踏まえたうえで、「いき」を一つの日本固有の思想、生活態度、振舞としてあらわれたものとして考察していきましょう。
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◆意気地と諦めが日本独自のもの
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『「いき」の構造(講談社学術文庫版))』の解説で藤田正勝(*10)さんは、「媚態」、「意気(意気地)」、「諦め」の三つについて以下のように説明しています。
・・・以下引用・・・
全体の基盤となっているのは言うまでもなく媚態(そしてその根底にある欲望)である。
意気地と諦めとは、それにある方向性を与える役割を果たしている。
九鬼自身は「いき」の「基調」を構成するのが媚態であり、意気地と諦めとが、その「民族的、歴史的色彩」を規定していると言い表している。
意気地と諦めとが、「いき」を、ヨーロッパ諸言語にそれに対応するものを見いだせない独自なものにしていると言ってよいであろう。
・・・引用ここまで・・・
(*10)藤田正勝:
http://tinyurl.com/ye2a3vzf
(花魁的な)媚態と(サムライ的な)意気地と(修行僧的な)諦めを統合すると「いき」になるという発想でしょうか。
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◆現代日本にも続く「いき」
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「いき」な色とか香りとか言葉使い、しぐさ、模様などについても言及されています。
が、「江戸」がまだ遠い過去ではなかった時代に生きた九鬼周造によって書かれたものなので、「いき」の例として取り上げられているものが江戸時代の風俗、文化、芸術、歌舞音曲、しぐさなどなどなので、現代の私たちにはわかりにくいです。
しかし、前回とりあげた「いき」の要素の一つ「媚態」(*11)を「ツンデレ」に例えたように、「いき」は現代の表現や生活態度にも確かに通奏低音のように流れています。
(*11)「媚態」:
http://tinyurl.com/3dc4p6wu
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◆「意気(意気地)」とは
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先程引用したように「意気(意気地)」も「諦め」と同様「いき」の日本独自の「民族的、歴史的色彩」を規定しているということです。
元々、「いき」、「意気(意気地)」は「意気」という字で、意志や気概を指す言葉でした。江戸時代に入ると物事に積極的に向かってゆくきっぱりとした態度、心意気が純粋さとしてとらえられ、「粋」という字としても使われるようになりました。
「火事と喧嘩は江戸の花」などという言葉で知られているように江戸では大火事が多く命を惜しまない働きぶりが華々しい火消しや、寒中でも法被(はっぴ)一枚で美しい刺青を見せるとび職人、そんな江戸っ子の気概が江戸の文化の理想になっていきました。
また、「いき」には武士道の理想も息づいています。
貧しくとも恥ずべき生き方はせず不義を為さず、誇り高く忠義を尽くす「武士は食わねど高楊枝」など、金や金儲けに奔走する商人を卑しいものとして蔑み、気概、矜持を重んじました。
また値札も見ずに買い物をし、宵越しの銭を持たないいきな伊達男。
大金を積む野暮な富豪をつっぱねる、いきな遊女などなど。
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◆「媚態」を昇華する「意気(意気地)」
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