池田清彦のやせ我慢日記
/ 2024年3月8日発行 /Vol.259
INDEX
【1】やせ我慢日記~LGBT容認と差別の歴史~
【2】生物学もの知り帖~新種のクジラの棲息数は50頭だった~
【3】Q&A
【4】お知らせ
『LGBT容認と差別の歴史』
前回は一神教が世界宗教になるまでは、性的マイノリティが忌み嫌われ、コミュニティから石もて追われるようなことはなかったという話をした。多くの社会では、性的マイノリティは特殊な人だと思われることはあっても迫害されることはなかったようだ。
まず、日本において、明治時代より前に性的マイノリティが社会的にどのように扱われていたかについて見てみたい。平安時代後期に作られた「とりかえばや物語」という物語があって、関白左大臣に二人の子がいて、男児は内気で女性的な性格で、女児は快活で男性的な性格であったため、父親は男児を女装させて女性として育て、女児は男装させて男児として育てたところ、二人とも社会的にうまく立ち回り、出世街道を登っていったという話である。
二人は、身体的な性とは反対の性を与えられても、苦痛なくうまく適応して生きていたので、トランスジェンダー的資質を持っていたと思われるが、結局、ばれてしまい、本来の身体的な性に戻って、ハッピーエンドを迎えるという筋立てである。重要なことは、このような状況は特異なことではあっても、忌むべきことのようには書かれていなかったことだ。当時の人たちもこの物語を受け入れていたことから、性的マイノリティに対する差別はなかったと思われる。
同性愛も日本では常態で、特に僧侶は女色を禁じられていたので、所謂ゲイに走る人が多かったようだが、社会的秩序からの逸脱とは看做されていなかった。武士の間でもゲイは一般的で、武将の傍に控えていた小姓は、時に男色の対象とされたが、これもネガティブなこととは考えられていなかった。江戸時代になってからは、陰間茶屋という男性の売春夫を置いてある売春宿があり、吉原ほどではないにせよ、結構流行っていたようである。
女性の同性愛も、大奥では良く行われていたと思われ、「大奥はまず上役が下になり」という川柳があるくらいで、張型や媚薬や肥後ずいきなどを売る業者が出入りしていた。有名なのは両国薬研堀にあった「四つ目屋」で、レズビアン用に双頭の張型も商っており、「四ツ目屋は女ばかりを喜ばせ」という川柳が残っている。総じて、明治時代より前は、性は淫靡なものとして扱われておらず、性的マイノリティも含めて、性的な行為をおおらかに楽しむ風潮が強かったと考えられる。
この記事は約
NaN 分で読めます(
NaN 文字 / 画像
NaN
枚)