いつもお読みいただきありがとうございます。
第81回目の淺野幸彦メールマガジン「リベラルアーツ事始め」をお送りします。
今回は、別のことで時間がとられてしまい新しい考察を記すことが出来ませんでした。
かつて水族館劇場という演劇団体の求めに応じてその機関誌に発表した随想を全文を記載します。
いつものように注や見出しはつける時間が取れませんでした。
ご容赦ください。
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「虚人(うつろびと)を巡る殿(しんがり)戦」水族館劇場機関誌FISHBONEのための最終稿
~水族館劇場「この世のような夢・全」~
あさぼらけ、水族館劇場の夢を見る。
いつかどこかの渚、後継ぎがいないので自分の代で廃業するという老漁師の網干し場を借りて、仮設の水族館劇場の芝居小屋、名付けて「海月城址」をつくる。
初日は満月大潮の日。当日、朝は干潮。昼にどんどん潮が満ちて、劇場のすぐそばまで潮が上がってくる。あちらこちらで冠水状態。スタッフに、客入れのころはまた干潮になるといって落ち着かせるが、いつもの大潮とは違い、潮の満ち引きの差が尋常ではない。
客入れ時には遥か沖合まで引いていた潮が、満月が中天に向かう開演とともにみるみる満ちてくる。まるで大海嘯。水族館劇場の最大の見せ場、天端に仕込んだ大量の水が降り注ぐ頃には、海水も舞台・客席に押し寄せてくる。
水族館劇場につどいし水から生まれし「うから」が水に還っていく時期が来たんだなと、妙に納得し、心静かな自分がいる。そして私も一緒に水に還っていくのだろうかと思いつつ、目が覚めた。
遠い昔、中学生のころに手当たり次第に読みふけったSF小説の一冊に、全面核戦争後の人類の静謐な最後を描いたネビル・シュートの「渚にて」という名作があった。その巻頭に引用されていたT・S・エリオットの詩「The Hollow Men うつろなる人間」の一節が、まだ夢うつつの頭をよぎる。
このいやはての集いの場所に
われら ともどもに手さぐりつ
言葉もなくて
この潮満つる渚につどう……
かくて世の終わり来たりぬ
かくて世の終わり来たりぬ
かくて世の終わり来たりぬ
地軸くずれるとどろきもなく ただひそやかに
夢もなく、恐れもなく、絶望でも失望でもなく、憂愁と寂寥に彩られた諦観が、ひたひたと私たちの心を浸していく。このような諦観とそれでも瀬戸際で必死に抗うアンビバレンツな心性が、水族たちには確かに流れている。
現在、私たちのつどう渚は、デジタル大海嘯が押し寄せている。
私たちは、あらゆる局面でグーグル、ビッグデータ分析、AIなどなどに析出される情報社会に生き埋めにされている。
グーグルは人間活動の全てを機械可読データ化しようとし、SNSは個人の行動を断片的データとしてネット上に流通させる。AIを仕込んだビッグデータ解析技術が氾濫するデータの再組織化を進め、その成果が社会を動かす。
もともとあったのか、なかったのかさえ、あやふやな人間の自由意志などもはや見向かれもしない。
こうした再帰的・自動的な情報社会、データの下僕ども、デジタル屋いうところのデータドリブンでデジタルトランスフォーメーションな社会で、影を失いすべてを情報として露出・提供し続ける人間は単なるノードとしての虚人(うつろびと)。
かつてナチスドイツがユダヤ人大量虐殺を実行した、アウシュビッツに代表される強制収容所では、人々は鞄を、服を、髪を、毛を、そして名前を奪われて、刺青された番号で呼ばれ、一人一人が数字にされてしまった。
そして、「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である。」とテオドール・W・アドルノは記した。
アウシュビッツではなく、詩作が野蛮であるというのはどういうことか。アウシュビッツという空前の悲劇、野蛮の極致ともいえる事件は、現代の「文化」と見なされている効率性を中心に据えたという意味において、まさに現代を象徴する出来事。
アドルノは、文化とは野蛮の対極にあるものではなく、文化こそ野蛮との親和性を持つものであると考えた。現代はその効率という枠組みそのものに人間の精神的な活動というか内面というかが、浸食されていった時代であるともいえよう。
アドルノが考える文化のコアにある「詩作」ですら、人間の活動からは最も離れたところにあると考えられていた野蛮さを体現しているといわざるをえなかったのだろう。
そして、今、すべてをデジタルに還元しようとする途方もない力によって、私たちもまた、ますます猖獗を極める効率性のもとに、一人一人がすべてデータにされつつある。
家にはもう長いことテレビはないが、居酒屋などでたまに触れるテレビなどから、タレント、素人ないまぜに次から次へと休む間もなく垂れ流され、嬉々として露出され続ける、苦労譚や悲劇や心の傷や喜怒哀楽の物語。それはさながら魂のストリップティーズ。
かつては心の闇にしまい込まれていたはずのほの昏い欲望までもが、無影灯の光をあてられ、これでもかというくらいに抉り出される。
内面はもはやないのかもしれない。秘すべき思いや、生きている間、決して語られることのなかった、たった一人で死出の旅路に携えていく言葉を持たない人々は、厚みのないレイヤーと化した、ニーチェが予想した末人のようなもの。
あるいは、近代の新しい発明である人間という概念は、そもそもミッシェル・フーコーの予言通り、すでに、波打ち際の砂の上に描いた顔のように、消滅しているのかもしれない。
かつてマクルーハンが夢見たようなカトリック(普遍)的な一体感を持つ共同体としての「地球村」なんぞ、インターネットなどの情報社会の不可逆的進展によっても実現なんかしていない。
なぜならメディアは一般的に言って、「融合」と同時に「分断」と「差別化」をもたらすから。
いま世界の振り子は、「融合」ではなく、大きく「分断」と「差別化」に振れて、ポスト・トゥルース、オルタナ・ファクト、フェイク・ニュースなどがあふれている。
そんな、加速度的に阿呆船化が進行していく世界の中で、失地回復を望むべくもない水族館劇場の終わりなき殿の戦いが続く。
それでも、こんなふうに世界は終わってゆく(This is the way the world ends.)にしても、「人生、いのちはこんなふうに続いていく(This is the way the life goes on.)」と彼らはうそぶく。
とるにたらないかもしれない人々の一人一人が生きていて、一人一人のささやかでも壮大な人生がある。
デモクラシーとは、本来、デモス(民衆)すなわち、「とるにたらない(誰でもよい)」ものたちが統治する体制だ。
フランスの哲学者ジャック・ランシエールは『民主主義への憎悪』という刺激的なタイトルの著作の中で、プラトンほか様々な先達やエリートの中に潜む民主主義への憎悪を考察し、結果としてそれでも民主主義を積極的に肯定している。
といっても、彼の考える、民主主義は制度ではないし、合意を形成する手段でもない。民主主義とはこれまで公的な領域から排除され「言葉をもたない」とされてきた者らが、「不合意」を唱え、異議を申し立てる出来事を意味している。そこにこそ、「とるにたらない者」による統治、つまり、デモクラシーが存在するとしている。属領化すらされない人々の異議申し立て。これこそが、水族館劇場の真骨頂だ。
さらに、水族館劇場は、水族であるとともに、花火の「うから」でもある。水族館劇場の制作も手掛けている畏友・中原蒼二さんと、かつて廃園に囲まれた陋屋の上に広がる海辺の墓地から花火を見た時、彼がポツリとつぶやいた句「花火待つ 水と流れしものたちと(久保純夫)」は、まぎれもなく水族館劇場の幕開けを待つ私たちのことに他ならない。
夜空に大輪の光芒を放ち、少し遅れて届く爆発音の後。いつ始まるかと待つ身の期待感と一瞬の華やぎに歓声を上げる群集も、やがて花火同様、「水と流れしもの(死者)」になるという、無常の寂しさとうらはら。
その時の中原さんや私たちと同様、海上の台船から次々と打ち上げられる花火を、かつて楽しんだかもしれない、もはや「水と流れしもの」になった存在のメモリアルが林立する霊園から眺める私たちにあまりにもふさわしい句だった。まさに水族館劇場の芝居とは無数の忘れてはならない「水と流れしもの」と待つ花火に他ならない。
そしてやはり水族館劇場と花火のアナロジーを想起させる句をもう一つ。
花火消え 元の闇ではなくなりし(稲畑汀子)
花火が消えた闇は、元の闇とは異なるという心情の変化は不思議なものだ。「花火」は、悠久の時の中では一瞬にしか過ぎない「今生の生」の喩。華やかなもの、大切な人、美しかったものが消えた後、残されたものは、もはやもとの日々に戻ることはない。あるいは、心の無明・闇の中に以前とは異なる何かが残るのだろうか。
水族館劇場の芝居もまたしかり。始まりと終わり、三時間にも満たないのに、途方もなく深く、広い時空を経廻る旅の目撃者となり、私たちは大きく変わってしまう。また、初日から楽日へと向かっていく中で、内容は有為変転を繰り返し、生成変容していく綺想譚(メラヴィリア)に私たちは眩惑され、眩暈をおこし、憑依され、魅了されつづける。
始まりと呼ばれるものは、しばしば終わりのこと。それでも終わりを迎えるということは、新たな始まりでもある。出発点は、終着点。終着点は、出発点。
忘れ去られた無数の水と流れしもの、逝ってしまったけれど決して忘れ去られることのないもの、そして、とるにたらない人々のひとりひとりが生きていて、ひとつひとつのささやかで壮大な人生を輝かせるために、うつろなる人々を巡る殿(しんがり)の戦いは続く。
最後に、ノーベル文学賞を贈られた現代ポーランドを代表するもっとも偉大な詩人、深刻な主題をユーモアを忘れずに表現しつづけたヴィスワヴァ・シンボルスカの詩集『終わりと始まり(沼野充義訳、未知谷)』より「現実が要求する」の一節を水族館劇場へのはなむけとして記しておく。
・・・・・
この恐ろしい世界には
魅力がないわけではないし
起きるに値する朝だって
あることはある
マチェヨヴィツェの野に
草は青い
そして草にはいかにも草らしく
透きとおった露
この世には戦場のほかの
場所はないのかもしれない
戦場にはまだ記憶されているものも
もう忘れ去られているものもあるけれど
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*マチェヨヴィツェ:ポーランド人にとって忘れられない歴史的戦闘と敗北のあった街
最後までかつて書いた駄文をお読みいただきありがとうございました。
また来週お会いしましょう。
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