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渡辺勝幸の日本一元気になるメールマガジン
第4938号 令和6年3月22日(金)発行
発行部数 9,625 部
【富貴や名誉を求めるでなく、幽囚の学びに暇なし】
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【富貴や名誉を求めるでなく、幽囚の学びに暇なし】
朱子の註に「聖人の心は」云云、
聖人の心は、
貧賤の境遇にあっても、
うらやましいのほしいのといって慕う心が外に動くこともなく、
富貴の境遇にあっても、
うれしいの楽しいのといって喜ぶ心が中に動くこともなく、
どんな境遇にあってもその境遇なりに落ち着いて安らかで、
自分はそれに関係するところがないのです。
それは、自己の本性が、
その場その場において安定しているからである、とあります。
わたくしは、この註に対し、次のように考えます。
貧賤でも慕わず、富貴でも動かないというのは、
枯禅といってよいでしょう。
わたくしの考えでは、舜には、
一種の至上の楽しみがあったからこそ、
貧賤であっても慕うひまがなく、
富貴であっても動くひまがなかったというべきです。
その至上の楽しみというものは、
孔子や顔回の楽しみとしたところと同じであります。
ですから舜の「いり米を食い草を食う」なりに楽しんでいたのは、伊尹が
「湯王の招聘など何になるか。
わたしは、畑のなかで暮し、堯・舜の教えられた道、
すなわち仁義を楽しむほうがよいと思っている」
といったものと同旨であり、
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