林田直樹の「よく聴く、よく観る、よく読む」2024年3月30日 Vol.435より
【音楽随想】
●ポリーニをしのんで
小澤征爾に続いて、イタリアのピアニスト、マウリツィオ・ポリーニ(1942年生まれ、82歳)も逝ってしまった。
クラシック音楽界で一つの時代を築き上げた巨人たちが、こうして次々とこの世を去っていくニュースに接するたびに、言いようのない寂しさにとらわれる。
ある関係者から聞いた話だが、亡くなる前日くらいに、病床のポリーニは「もう一度日本でピアノを弾きたい」と漏らしたのだそうだ。
「大丈夫ですよ、サントリーホールはちゃんと押さえてありますから」と、(おそらく安心させるために)家族が言ってあげたという。
それほどまでに、ポリーニにとって日本で演奏してきたことはかけがえのない思い出であり、いつも望んでいたことだったのだろう。
1970年代の終わり頃、ショパンといえばルービンシュタイン、ホロヴィッツ、フランソワを聴いていた自分にとって、初めてポリーニの「練習曲集」に接したときの衝撃は忘れられない。
すべての音が真昼のように燦然と輝く、筋肉質で逞しいピアニズム。情に流されない硬派でクールな解釈。その完璧主義的な印象は、19世紀的なロマンティシズムを一挙に過去のものへと追いやる爆風のような効果をピアノ音楽ファンにもたらした。
しかし、ポリーニのあの輝かしい音が保たれていたのは、1989年の来日公演までではなかったろうか?
1989年の来日公演のときに、東京文化会館で私はポリーニの楽屋を訪れて、初めて握手をした。そのときの手の感触は衝撃的なものだった。指のすべての関節に筋肉がパンパンに張り詰めていてグローブのように逞しい手だった。いろんなピアニストたちと握手してきたが、あのときのポリーニほど凄い個性的な手はなかった。
ところが、1990年代の半ばに再度ポリーニと握手したときは、別人のように握力のない穏やかな手になっていたのである。あの頃から肉体的な衰えは始まっていたと私は見ている。
ちなみに、2年ほど前にNHKの番組収録でポリーニについて私のコメントが使われたとき、ポリーニの肉体的な衰えについての上記の私の意見は削除され、称賛一色の内容に編集されていたのはやや残念であった。
晩年のポリーニの技巧の衰えについて、それを厳しく指摘する向きは以前からあった。「ぶざまだ」「全く呼吸ができていない」「音が濁っていて汚い」と言う人も私の周囲には多かった。
だが、演奏の表層だけをもって、そのように断じてしまって良いものだろうか。若い頃の輝きはなくとも、最後の最後まで、ストイックな厳しい精神を感じさせる瞬間は、やはりあったと思う。
2002年6月にミラノのポリーニの自宅を訪れて取材したときのことは、一生忘れられない。隠れ家のような暗く大きな屋敷の階段を上がっていくと、忍者が使うような小さなドアがあった。そこがポリーニの家の入口なのだ。
応接間には、モダンで鋭角的なデザインのガラスのテーブルがあり、横には、14世紀に描かれたという無名の夫婦の肖像画が飾られていた。「私の祖先ですよ。いや冗談ですがね」とポリーニは言った。
日本人のジャーナリストでは3人目の訪問だったそうだ。マネージャーの話によると、機嫌が悪いときは15分で追い出されることもあるそうだが、私が取材したときの滞在が1時間半におよんだのは幸いだった。
ベートーヴェンやシューマンのこと、政治や文学のこと、師匠ミケランジェリのことなど、あのときのポリーニはびっくりするほど上機嫌で、何でも話してくれた。その雰囲気を察して、マリサ夫人は大きなグラスに少量のストレートの強い酒を運んできてくれた。外では急な夕立ちの雨が降り始めたことを覚えている。
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